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「あっ、友ヶ島の砲台跡や」
先日の絵の教室の帰り立ち寄った本屋さんで「婦人之友」(3月号)を見つけ、
パラパラとめくった時だった。この写真が目に飛び込んできた。

小さい時から両親や弟たち、いとこ達と何度も遊びに行った島。
キャンプをしたり、海辺で遊んだり、ぐるっと島を一周して歩いたり。
私には思い出の多い、懐かしい場所である。
この島へは和歌山県の北の端大阪府との境目にある加太から船(観光定期船)で渡る。

加太と淡路島の間にある紀淡海峡の真ん中にあるのがこの友ヶ島であり、
4つの無人島(沖ノ島、虎島、神島、地ノ島)から成り立つ。
冬の晴れた、空気の澄みきった日には、我が家の2階のベランダから遠く大阪湾の向こうに
この懐かしい友ヶ島が見えることがある。
そんな時はどんなに嬉しく心が躍ることか!

「ねえ、今友ヶ島が“ラピュタの島”って呼ばれているのを知っている?」
ある時、釣り好きの絵の教室の友人から聞かれたことがあった。
彼女は私が加太の近くの村で生まれ育ったのを知っているから、
私にこんな問いかけをしたのだった。
彼女はご主人と二人で時々加太まで釣りに行くのでこの類のニュースはよく知っている。
「『天空の城ラピュタ』を知っている?友ヶ島の砲台跡の場所がラピュタの天空の城にそっくりだと言われていて、観光客がたくさんきているらしいわ」
こういうことには全く疎い私にはびっくりするようなニュースだった。

「天空の城ラピュタ」は子供たち、特に長男が大好きで何度も何度も見ていたのでよく知っている。また、友ヶ島に第二次世界大戦の時の旧日本軍の砲台跡があることは子供の時から知っていた。その上、ここだけじゃなく加太から大阪の深日(ふけ)方面に抜ける途中にある大川村へ続く大川峠にも砲台跡があり、中学校のハイキングなどでよく遊びに行ったものだった。大川峠参りというものも子供の頃にあり、毎年春先にお弁当を持って祖母や両親、叔母夫婦、いとこ達とよく大川峠まで行ったものだった。

この砲台跡を遺す友ヶ島や大川峠の要塞は明治時代に旧日本軍が大阪湾防衛にために造ったもので第二次世界大戦まで日本の軍事要塞だったという。戦後70年余り、あまり知る人もなくひっそりとそこに遺っていた場所があの有名なアニメ映画「天空の城ラピュタ」で突然有名になり、多くの観光客が訪れてくるようになるとは夢にも思わなかった。
このような雑誌にまで取り上げられるほど有名になるとは思いもよらなかった。
時代が変われば、物事も考え方も変わるものだなぁと改めて驚いている。
雑誌の写真を眺めながら平和であることのありがたさを改めて感じたのだった。

どんなことがあってもこの平和を守り続けたい。
そう思った。


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終戦後完全に破壊された第2砲台跡
海の向こうに見えるのは淡路島
(「婦人之友」3月号・p9より)


* 追記 2/20:鍵コメントさんに頂いた言葉で地図を追加することにしました。
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by PochiPochi-2-s | 2018-02-18 23:43 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
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今日はここ2、3日の寒さと打って変わり気持ちのいい暖かい日になった。
裏庭の梅の花の蕾もかなり膨らんできた。
もうすぐこの冬の寒さに耐え、きれいなかわいい花を咲かせるだろう。
その梅の花の上にはきれいな青空が広がっていた。
青空はモヤモヤしていた私の心をスッキリさせてくれたようだ。

買い物をすませたあと、長い間気になっていた押入れの整理をした。
私のコーナーで、次から次へ物を放り込み一次的に片付けた気にはなっていた。
しかしどうも使い勝手が悪く今日は思いっきり整理をしようと急に思いたったのだった。


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Nickさんの写真カレンダー・1月
安曇野のコハクチョウ


使い終わってなおしていた2016年の写真カレンダーのはいった箱が目に入った。
2015年の年末にNickさんから頂き、
2016年は月替わりのこの写真カレンダーを楽しんだものだった。
毎日玄関を通るたびに見る山、草花、村の風景等の美しい12枚の写真。
「使い終わったからといってなおしておくのはもったいないなぁ。
写真だけでももう一度毎日見て楽しみたいなぁ」
ふとそう思い、主人に頼んでカレンダー部分(数字の部分)をきれいに切り取ってもらった。


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思った通り美しい写真になった
私は不器用だからこういう仕事は主人に頼むのが一番。
きれいにカットしてくれた。

さあ、今度は一枚の写真として 毎月月替わりで楽しめる。
大好きな、12月の雪の仙丈岳(南アルプス)の写真まで毎月の楽しみが再び戻ってきた。
これからの一年間、玄関を通るたびに写真を見て何かを感じ、何かを考え、何かを思うだろう。
どんなことが待っているだろうか?
そう考えるだけで心が弾む。

押入れの整理に昼からじゅうかかったが、
楽しい宝物を発見し、思い切って整理を決行してよかったなぁ。
夕食は久しぶりに粕汁を楽しんだ。


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by PochiPochi-2-s | 2018-01-30 22:49 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

嬉しい“突然”が続く

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『嵐が丘』の舞台、Top withensを目指して
ヒースの咲くムーアを歩くヘレンさん


お昼過ぎiPadを開きメールを見た。
「あらっ、ヘレンさんからだ。元気だったのだ」
彼女からの思いがけないメールが届いていた。

3年前のクリスマスカード以来、音信が途絶えていたヘレンさんからのメールだった。
連絡がつかなくなってからもう2年以上になる。
どうしているのかなと思いながら今年もカードだけは送っておいた。
しかしなんの音沙汰もなく、もう連絡がつかないのかしらと諦めていたところだった。
彼女は元気だった。
ホッとひと安心すると、彼女との楽しかったウォーキングを懐かしく思い出した。


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Top withensからの帰り歩いた西ヨークシャーの村


彼女はイギリス北部、ウエストヨークシャー州にあるブロンテ姉妹の生まれ育った小村、ハワース村の観光協会に所属するガイドである。ロンドンからハワースの近くの村に移り住み、ブロンテ姉妹にまつわる場所を訪れ、説明するガイドをしている。決っしてゆとりがあるとは思えない生活だが、私が彼女に会った時はブロンテとウオーキングが大好きという趣味と実益を兼ねたガイドという仕事を心から楽しんでいた。

2013年8月、私はこの村にいた。
友人のリさんをイギリスのウェールズ州カーディフに訪ね、その後どうしても『嵐が丘』の舞台になったハワース村を訪れ、ヒースの咲くムーアを歩きたかったのだった。
1日のガイド料は 私の宿泊したB&Bの一泊の値段より安かった。
もう一泊したと思えばいいと考え、私のための個人向けガイドを日本から予約していた。
そのようにして知り合った彼女は気さくで明るい女性だった。
彼女との5時間余りのウォーキングはどんなに楽しかったことか!
今でも思い出すと心が踊る。

今日は、元気ですか?
この言葉で始まり、自分のミスで私への返信メールを送っていなかったことに気がついたこと、この2年間自分の母親の家の売買で他のことがうわのそらだったこと、今年中に新しい家(テラスハウス)を見つけ移りたいと思っていることなどが書かれていた。
そして最後に、今でもブロンテ姉妹について語るウォーキングをしていること、今年はイギリスにおける女性参政権獲得100周年で、そのことを祝う”walk and talk”を行う予定であること、また今年はエミリー・ブロンテ生誕200周年でもあり、そのことを祝う “walk and talk”も計画していることも知らせてくれた。

「ああ 元気で暮らしている。
好きなことを仕事にすれば、贅沢さえしなければ楽しく暮らせるのだなぁ。
あの彼女の好きなチョコレートを送ってあげよう」
ホッとし、ただただ嬉しかった。

こんな突然のメールはどんなに心弾むことか!
一昨日のPさんとの何年ぶりかののおしゃべりも、2日の彼女からの突然のメールで決まったのだった。楽しい時間だった。

今日はもうひとつおまけの突然があった。
このヘレンさんからのメールを見たのち、郵便局まで出かける用事があり急いで出かけた。
自動車を使わず歩いて行くつもりで家を出た。
途中で近所の友人Mさんに偶然出会った。
彼女とは去年の春以来、お互い何かと忙しく全く会っていなかったのだった。
気にはなっていたが元気だろうと、いつでも会えると思い、電話もかけずにいた。
「まあ!ずいぶん久しぶり。いま時間ある?」
それで話は決まった。
久しぶりに話をしようと、できたばかりの、二人とも入りたいと思いながらまだ入ったことのない喫茶店に入りおしゃべりを楽しんだ。
やはり話題は尽きない。
はっと気がつくと刑事フォイルが始まる時間まで1時間ほどしかなかった。
じゃあねと別れ、郵便局により、慌てて帰った。

家に帰るとさらにもう一つ嬉しい“突然”が待っていた。
予期せぬ葉書が届いていたのだった。
中学時代の恩師からの葉書だった。
昨日はこのS先生からやはり突然に電話がかかり少しの間話をしたばかりだったのに、
今日は葉書が届いた。
心が弾んだ。

“突然”はいつも楽しいことをもたらしてくれる。
ここ2、3日嬉しい突然が続いている。
明日も思わぬ“突然”があればなぁ。



by PochiPochi-2-s | 2018-01-13 23:04 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
昨夜娘から電話があった。
「Mさん(娘の夫)が元旦にインフルエンザを発症し、堺の実家においてきた。お義父さんとお義母さんが大変かもしれないが、リョウとエイちゃんに感染したらもっと大変なので。悪いけど堺の実家に隔離やわ。私と子ども2人は予防接種してるから多分大丈夫やと思う。お母さんとお父さんは予防接種してるの? してるんなら、今日お母さんのところに行くよりか私のマンションの方にきてくれる方が嬉しいのやけど」


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「じゃあお母さんたちがあんたのところへ行くわ。その方がいいかもしれない」
夕食にと用意していた鯛の姿焼き、朝炊いたリョウちゃんの大好きなお煮しめ、黒豆、りんご、その他のものを持って出かけていった。
リョウちゃんが楽しみにしていたJR東日本のカレンダーも忘れずに持っていった。
一月は雪景色の中を走る「こまち」。きれいな写真。きっと喜ぶだろう。

「わあ、きてくれた! 嬉しいなぁ。明けましておめでとうございます。
これ見て見て。おばあちゃんにもらった恐竜の服着てるんや。
ママが今日着てもいいって言ったから」
年末にお正月用にとプレゼントしていた服。
服に印刷されている恐竜の名前を一つ一つ教えてくれた。
背中にも恐竜のシルエットがプリントされている。
嬉しくてたまらないのだろう。
声がいつも以上に弾んでスキップをせんばかりにはしゃぎ回っていた。
エイちゃんもつられて腹ばいで遊びの仲間に入ろうとする。
この2月半ば、早産で生まれた時は、こんな時期がやってくるなんて思いもよらなかった。
一日一日が何事もなくただ無事に過ぎますように。
そう願う毎日だった。
エイちゃんの笑顔を見ているとこれ以上の幸せはないと思えるのだった。


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「お母さん今年は戌年やなぁ。確かお父さんは戌年?
ポチが生きていたらなぁ、リョウがめっちゃ喜ぶやろうにとよく思うわ」
淹れてくれたコーヒーを飲んでいた時、娘がポツンと言った。

ポチが死んでからもう10年も経つが、いつまでも私たち家族の心の中で生きている。
家族や近所の人たちみんなにかわいがれた幸せな犬だった。
ポチは以前住んでいた家の近くの河原に捨てられていてた。
その河原近くのスーパーで働く青年に拾われ、飼い主を見つけるために段ボール箱に入れられてスーパーの入り口に置かれていた。まだ生まれて1、2ヶ月ぐらいだった。やせ細って、大きな目だけが目立つ可愛い子犬だった。その子犬を一目見たとたん、なぜか飼いたくなった。
耳がピンと立っているのが可愛かったのだった。
家に連れて帰ると子供達は大喜び。特に娘と次男の喜びようは私が想像していた以上だった。
それから16年。病気一つせず元気に生き、私たち家族を大いに楽しませ、時には慰めてくれた。賢くて、人懐っこくて、用心深く、どこまでも飼い主に従順だった。おとなしかったが、
いざとなると紀州犬とも勇敢に闘って勝った。散歩が大好きで朝夕2回よくポチと歩いた。
夕方何度も散歩に行こうと催促にくるのがおもしろかった。風が流れる場所も大好きだった。
ポチのいる場所に行くと必ず心地よい風が流れていた。
ポチはそんな犬だった。
ポチとの生活はいつまでも心に残る大切な思い出となっている。

娘としばらくの間ポチの思い出話に花が咲いた。
彼女は本当にポチが大好きで、時間がある時にはよく滝まで散歩に行っていた。

「今年は戌年。ポチが生きていたらなぁ」
娘と私の気持ちははからずも一緒だったのは、「やはり母娘か」と感慨深いものがあった。
戌年の今年は、きっと何かにつけてポチのことを想い過ごすだろう。
いい年になってほしいと思う。


More 天板と網
by PochiPochi-2-s | 2018-01-03 23:36 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

もう一度会いたい

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昨日の夜の関西学院大学図書館前のもみの木
もうすぐクリスマス
きれいに電飾されていた



一昨日の頑張りすぎた庭掃除の影響か、昨日は何をするにも気怠く動きが鈍かった。
アップルパイと紅茶でひと休みした時、
一昨日の夜見たヒマラヤ登山のテレビ番組を何気なく思い出していた。

「ヒマラヤの聖峰、80年目の再挑戦 山頂に眠る旗を探しに」という番組だった。
今から約80年前の1936年(昭和11年)に堀田弥一隊長率いる立教大学山岳部と大阪毎日新聞社運動部竹節作太記者を含む5人の登山隊がヒマラヤの聖峰ナンダ・コートに初登頂し、その証として山頂に立教大学校旗・毎日新聞社旗・日章旗の3旗を埋めた。この秋 その3旗を探し出し持ち帰るために、立教大学山岳部OB2人を含む5人の登山隊がナンダ・コートに再び挑んだという番組だった。
尚、昭和11年は陸軍の青年将校がクーデターを企てた「2・26事件」が起きた年である。


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(Web siteから拝借しました)


青空を背景にそそり立つナンダ・コートの美しさは、テレビに映し出されるその山の姿を見ているだけでも充分に神秘的だった。山の好きな人なら即座に魅了されるような姿だった。
今回再び挑戦した登山隊は、登山前は想像もしなかった、次々と発生する困難を克服しながらも、結果的には頂上まであと200mというところで『登頂し3旗を持ち帰る』という使命を諦めざるをえなくなってしまった。
登山にはどんなに周到な計画を立てていても予想外、想定外のことがよく起こる。
特に6000mを越す高山での登山活動ではなおさらだろう。

“登頂”、“制覇”.も大切なことだが、今回この番組を見て何よりも大切なのは、
『命を守ること。無事に下山すること』だと思った。
『登山隊全員無事で下山できること』が何よりも一番大切なことだと思う。
それ故に『諦めるという決断の大切さ、重さ』を身にしみて感じた。
頂上まであと200mの所で引き戻す決心をした登山隊の勇気ある決断に、TVの前で拍手を送っていた。そそり立つ山頂を目前に見て、さぞ悔しかったことだろうと思う。

この番組を見ていて、久しぶりに懐かしい人、今はもう会うことすら叶えられない
N君の顔を思い出した。
できるものならもう一度会いたいと思った。
彼は2001年(平成13年)10月末、ヒマラヤの6000m級の山で登山活動中に亡くなった。
死因は高山病だった。
有志8名の登山パーティによって計画実行された登山だった。
彼は航空会社のパイロットだった。
憧れのパイロットになるためどれだけ努力していたかは、よく聞いていた。

はっきり覚えてはいないが、N君が亡くなった当日か翌日のこと。
新聞社に勤めていた友人Y君が入ってきた外電を何気無く読んだその時、
そこにN君の名前を見つけ驚いたのだった。
「えッ、Nが? ヒマラヤで死んだ? まさか…」
Y君は慌てて当時旅行社に勤めていたもう一人のN君に電話をかけた。
旅行社なら何らかの事情を知っているかもしれない、もし知らなくても確認する手段があるかもしれないと考えたのだった。
N君は旅行会社として日頃から付き合いのあった、死亡したN君の勤めていた会社に電話をかけ確認したらしかった。
外電のテロップに流れてきたニュースは正確で、亡くなったのは事実だった。
N君は日本で行われる追悼ミサの日時と場所も聞いてくれていた。
翌日すぐにこのニュースが仲間に伝えられ、東京で行われた追悼ミサ(奥さんがクリスチャン)に参列できる人はみんな参列したのだった。
私も旅行会社に勤めるN君と一緒に東京に飛び、参列した。
奥さんと子供を残し50歳そこそこで亡くなってしまった。
ずっしりと心に重く沈むような悲しいミサだった。

この登山パーティで亡くなったのは彼だけだったが、遺された人たちのことを思うと、
やはりどのような登山であれ「無事に下山する」ことの大切さ、何か体に異変を感じた時点で
登頂を断念し引き返すことの勇気が必要なのではないかと心から思ったのだった。


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戸隠奥社の参道で
右端が学生時代のN君


後日、このヒマラヤ登山の話についていろいろと仲間から聞き、計画の時点で問題も多かったらしいが、私は直接かかわったわけでもなく詳しくは知らない。学生時代のクラブの仲間O君が彼の死から一年後、ヒマラヤでの死亡事故の検証を記録にして残している。

大学に入り、夢であったパイロットになるため、クラブ活動をしながら頑張っていたN君の話はクラブの男子からよく聞いていた。卒業後夢を実現。パイロットとして学生時代の仲間の誰よりも先に一歩前に飛び出し、その生活は同級生みんなの憧れの的であった。
もう一度あの学生時代に戻り、会えるものなら彼に会い、話をしたいものだと思うが、
叶わぬ夢である。

一昨日のテレビ番組を見ていてあらためて命の大切さを思ったのだった。


More 失敗!
by PochiPochi-2-s | 2017-12-18 20:10 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

チョコレート

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ブログ友Dekoさんに頂いたスノードロップが咲いた


昨日のことだった。

「なあ、なんとかの真珠ってどこのことだった? 何の真珠だった?」
2階から主人の声がした。
出かけるのをやめ、 CDを聴きながらマムシグサのスケッチをしていた時だった。
木、金、土と3連続で外出が続くと、水曜日に絵の教室から持ち帰った草花が枯れてしまう。
湿らせた新聞紙に包み、ナイロン袋に入れ、冷蔵庫の野菜室で保存してはいるが、そう長く持つはずはない。早くスケッチだけでもしておかなくてはと、急遽遠出をやめ、マムシグサのスケッチと格闘していた時だった。

「うん?何?どうしたの?
“ドナウの真珠”のこと? ハンガリーのブダペストのことだと思うけど」
「チェコのモルダウはドナウと違うんやったかな。モルダウはどこへ流れていくのかな」
「チェコからドイツに入りエルベ川と合流し、ドレスデンからハンブルクへ流れる。
最後は北海へ流れこむと思うわ。それがどうしたん?」
「いやちょっと知りたいことがあって」

ハンブルグと口に出して言ったとたんに、私の心にメミングさんの顔が浮かんだ。
「どうしてはるかな。夏から手紙も届いていないし。
今年もまたカナリア諸島に避寒にいってるのだろうか」
あの懐かしい笑顔、話し方、声を思い出し、心はメミングさんのところへ飛んでいった。

「〇〇ーコ、チョコレートはどのようなのが好き?
ナッツが入っているのがいい?それともチョコレートだけのものがいい?
ブラック? セミスウィート? それともスウィート?」
初めて彼女をハンブルグ郊外の家に訪ねた時のことだった。
しばらく話しをした後で、何の脈絡もなく突然聞かれたのだった。
小さな丸テーブルの上にはコーヒーとチョコレート菓子が置かれていたが。
「私、何も入っていないスウィートが好きです」
確かそう答えたが、会話の流れの中のひとコマ、いつの間にか忘れてしまっていた。

この会話から4、5日後、初めてひとりでリューベックに行くことになった。
出かける準備をしていた私に、私が好きだと言ったチョコレートを手渡して彼女は言った。
「〇〇ーコ、はい、あなたの好きなチョコレート。これを持っていきなさい。
レストランでの一人だけの食事は、楽しくもないしおいしくもない。
そのうえ、値段も高いしテーブルチャージやその他のお金もかかる。
不経済だと思うので、お腹が空いたらこのチョコレートを食べて過ごしなさい。
夕食を十分に用意して待っているから。
私たちは昼食と夕食をひっくり返してもいいから。
朝と昼に同じものを食べて待っているから。気にしなくていいのよ。
それよりか私たちも大好きなリューベックの街を心おきなく楽しんできなさい。
レストランでの食事時間はもったいないわ」
また、「水も、ペットボトルを持っているのなら、それに水道水を入れていけばいい。
水道水は飲めるから。もしガス入りの水が好きならばそれも家にあるから」とも言ってくれた。

この時初めてドイツ人(いやこんなことをするのはメミングさん夫婦だけかもしれないが)というものを知ったのだった。
心に深く残る瞬間だった。とても印象的だった。
「なるほどなぁ。でも私は客人にこんなアドヴァイスをできるだろうか。
夕食はたっぷり用意しているから、お昼はチョコレートを食べて空腹を満たすようにという」
そう思ったことも確かだった。

チョコレートを食べて空腹を満たし、街の中を歩き回り、かつてハンザの女王と呼ばれた雰囲気のあるこの街を十分心から楽しめた。
お礼にと買ったリューベックのお土産のマジパン。
彼女は大喜びで夕食を減らしてでも毎晩ひとつづつ食べると言い張った。
クリスマスの時にのみ買ったりプレゼントしたりするお菓子だという。
リューベックの名産品らしかった。
おいしいチョコレートを見たり食べたりすると必ず思い出す彼女の言葉とチョコレートの味。

あの初めてのヨーロッパへの一人旅からもう15年も経った。
メミングさんも夫のルーディガーも二人とも85歳を過ぎた。
「まだまだ元気でいてほしいなぁ。今年のクリスマスカードには何を書こうか。
プレゼントは何を送ろうか。彼女たちの好きないつもの生チョコもいっしょに送ろう。きっとにっこり笑って毎晩ひとつづつ食べることだろう。」

そんなことを思いながらマムシグサのスケッチと格闘していた。




by PochiPochi-2-s | 2017-11-13 14:30 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

ひさしぶりッ!

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植え込みを待つヴィオラやネメシアなど


「元気?
11月1日に用事があって大阪に行くのだけど、久しぶりやから会って顔を見たいんや。
Nゼミのみんなに声をかけようと思っているので、出てこれるかな?
場所は追って連絡するわ。たぶん、梅田か西宮北口あたりになると思う」
先週初め頃、夜に突然電話が鳴った。
四国松山市近郊に住む友人のT君からだった。
「Nゼミ(大学入学時の基礎ゼミ)のメンバーで会って食事をしながら話したいんや。
久しぶりに都会(?)の雰囲気を味わいたいんや。今みんなに連絡している」と。

当時大学紛争のため入試は機動隊の見守る中で行なわれ、校舎は7月初めまで学生に占拠されていた。そのような状況下でできるだけ新入生をまとめ、勉強させようと考え出された基礎ゼミという制度。選択した第二外国語でクラス分けされ、担当教官が正副2人づつ配されていた。キャンパスが解放されるまで奈良や京都のお寺によく集まっては講義を受け、クラスでの話し合いがあった。それぞれの専門課程に進む前のクラスで、将来の専攻に関係なくさまざまな学生が混ざっていた。なかでもこのNゼミには個性的な人が多く、みんなコンパが大好きで、いつもどこかに寄り集まっては飲んで、食べ、談笑していた。卒業の時までみんな仲がよく、2回生の時の基礎ゼミはどのようなゼミだったのか、3人ともほとんど覚えてはいなかった。それくらい印象が弱かったのだろう。それに比べてNゼミは強烈な印象のクラスだった。

夕方5時半、待ち合わせの場所に着くように家を出た。
結局 突然だったのと週末じゃなく平日の夕方だったので、集まれたのはT君・U君・私の3人。
T君とは時々クラブの同学年の飲み会で会っていたが、それでも4、5年ぶり?
U君とはいつ会ったのだろうか?
もう20年以上も前だと思う。
大阪南河内にある大学の名誉教授の肩書きの名刺をもらった。
この3月で完全に退職したという。
しかも、近くの、春には必ず訪れる桜の名所・夙川に住んでいるとは、びっくりした。
今でも週一回、非常勤講師として母校で教え、家から片道45分をかけて歩いて通い、趣味で能を舞い、謡を謳うという。さすが京都出身と思いきや、小さい頃から嫌々ながら両親に習わされた結果だという。嬉しいことに大槻能楽堂での発表会時のチケットをプレゼントするという約束をもらった。
「この20年間自分の家から大学まで40分で歩けたのが、最近は45分かかるようになった。
悔しいで。たった5分の差とはいえ、これからはだんだんと歩くのが遅くなっていくのだろうなぁ」
彼のその言葉に思わずニンマリとしたのだった。
のんびりとした、いい自分の時間を過ごすシニアになっていた。
話し方も穏やかで、人柄そのものだった。
彼が過ごしてきた人生は彼なりに満足できるものだったのだろうとは容易に推測できた。

最初は「たった3人だけ?」と思ったが、かえってその少なさが幸いしてか話は随分弾んだ。
あまりの懐かしさに、2時間飲み放題の時間はあっという間に過ぎてしまった。
中華料理だったが、出てくる料理の写真も彼ら二人の写真も撮り忘れ、ひたすら話していた。
U君とは他にも共通の趣味があった。
彼もまた西宮芸術文化センター(コンサートホール)の会員でよくコンサートに出かけるという。
「ひょっとしたら今まで知らないままに出会っていたかもしれないなぁ」
なんて話も出て楽しい会話がさらに弾んだ。
「ほら、T。 田舎もいいけど、これが都会生活の楽しさや。いいやろう」
冗談半分でT君をからかうU君の言葉に思わず吹き出してしまった。

会話は、おもに“Nゼミでのこと”“卒業後今までのこと”“今何をしている”“これからどうしたい”というようなことで、子どもや孫の話はいっさい出ないというのも、また興味深かった。
女性だけの集まりとはかなり違う雰囲気で、私にはこちらの方が気楽でおもしろくビール片手に彼ら二人の話に興味津々で耳を傾けていた。

将来の自分の姿がまだわからず、なんの損得勘定もなく、ただ学生というみんな平等の横並びの身分でひたすら好きなことに打ち込んでいた青春時代。
そのような時代を楽しく懐かしく思い出しながら、今まで過ごしてきた半世紀近くの自分の時間を振り返るのもそう悪くなないなぁと心の中で密かに思っていた。
明日予定があるT君のことを考え、近いうちの再会を約束し、別れたのだった。

彼は2泊3日で大阪に出てきていた。四国松山から高速バスに乗り、明石大橋を超え6時間余かかったという。かなり疲れた様子だった。自分で運転してくるよりも楽かもしれないと思ったらしいが、バスも思ったほど楽ではなかったと呟いていた。
それでも京阪神間に出てきたいと思うのは、やはり青春時代を過ごした土地がいつまでも懐かしく忘れられないからなのだろう。この地に来れば、何人かの懐かしい友に気軽に電話一本で約束して出会え、心休まるホッとした時間を持つことができるのだろう。
「会えて話ができよかったなぁ」
帰りの電車の中で、もう一度楽しかった会話を思い出し、そう思った。




by PochiPochi-2-s | 2017-11-01 23:32 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
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次男 (4月から高校生)

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'娘 (4月から大学3回生)


「まあ、懐かしい! 横手山のスキー場やわ」

連日の暑さに絵を描く気力も失せ、今日はライティングビューローの中に入れている
手紙類を片付けるぞと小一時間ほど整理をした。
よくもまあこれだけ長い間整理もせずに放っておいたものだと、我ながらあきれてしまった。

「あらっ、この写真」
一ヶ所にまとめてていた手紙や葉書、カード、写真などを選り分けていた時だった。
懐かしい写真を見つけたのだ。
最近ふとしたことから思い出し、どこに入れたのだろうと探していた写真だった。

結婚当初からの唯一の共通の趣味はスキーだった。
子供たちが2、3歳を過ぎた頃から、スキーに連れていくようになった。
最初はびわ湖バレイなどの近場で、その後は長野へ。
長野道ができ栂池高原から志賀高原へ。
当初自分たちが滑れる時間ははとんどなく、子供たちを抱きかかえて滑る時間の方が多かった。それでもスキー場にいるだけで心が弾み、楽しいものだった。
その内に子供たちも自分で滑れるようになり、家族で滑るスキーの時間はもっと楽しいものになった。
今あらためて長野で過ごした時間を振り返ってみると、何物にも代え難い貴重な時間、宝物のような時間であったように思える。常に笑顔、明るい笑い声が絶えなかった。

1998年、春3月。
長男が抜けた家族4人で志賀高原にスキーに行った。
高校入試が終わり、ほっとしてお祝いを兼ねみんなで行ったスキーで、
娘も、とっくん(次男)のためならと北海道から合流したのだった。

「さあ、あの横手山のコースを滑り降りるぞ !」
長いリフトに乗り、眼下に見える雪に覆われた美しい森を眺めながら過ぎる時間は
何時迄も心に残る忘れ難いものとなった。
勇気を出して、いつの間にか私よりもスキーが上手くなってしまった子供たちと主人の後を転けずに無事に滑り降りれたことも、写真を見ていて思い出した。
今から思うとこの時が家族で行った最後のスキーだった。

次男にとっては志賀高原、特に寺子屋スキー場は、よちよち歩きの頃から過ごしたスキー場。
大学生になり、友人たちと志賀高原の寺子屋スキー場に行った時、思わず懐かしさがこみ上げたと言っていた。

この最後の家族スキー旅行から19年。
主人は完全退職し、娘は結婚し小さい2人の男の子の母親となり、長男も結婚し、中1と小3の男の子2人の父親になった。

この二枚の写真は、私に辟易する暑さを忘れさせ、久しぶりに様々な懐かしいできごとを思い出させてくれたのだった。


More クレマチスの種
by PochiPochi-2-s | 2017-08-02 23:35 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

台風

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降りしきる雨に濡れるデッキ



午前中に長崎に上陸した台風が四国を通り抜け、夕方には紀伊半島に再び上陸した。
今回の台風は予想以上にスピードが早い。
いつもよりかは少し激しい雨が降ったが、思ったほどきつくはなく、
雨が降るのを横目で眺めながらウリハダカエデの絵を描いていた。

「台風か…」
そう思った途端に、高知出身の友人との会話を思い出した。

「台風って聞くと、思い出すのはいつも同じ景色やわ。
父が家の外から窓枠に板を釘で打ち付け、家の中では 畳をあげて 窓を支えるために
窓に立てかけた。台風が通過する時、その畳を家族みんなで必死に押さえたわ。
私の生まれ故郷もあなたの故郷も、共に、台風銀座と呼ばれていたものね」

台風と聞けば、私も彼女と同じ思い出、同じ景色が真っ先に浮かんでくる。
台風が 四国高知辺りを通り、室戸岬から四国と和歌山の間の紀淡海峡を大阪湾に向かって
北上する時が、和歌山にとって一番危ない、危険な時だと、子供の頃から聞かさせ続けてきた。
「足摺岬じゃなく、室戸岬やで。怖いのは」
もう半世紀以上も前のことなのに、台風と聞くとその言葉を鮮明に思い出す。
家を、特に強風から守るために、ガラス窓に外から板を釘で打ち付ける。
これはいつも父の仕事だった。
母や祖母、子供達は畳を捲りあげ、窓に立てかけ、家の中からガラス窓を支える。
一番風の強い、台風が通過するときはその立てかけた畳をみんなで押さえたのだった。
あるとき、台風の最中、年の離れた下の弟がどうしてもアイスクリームが欲しいと言ってきかず、母が大雨強風の中買いに走ったこともあった。

今 私たちの住む家は、昔のものとは比べ物にならないほど頑丈なしっかりした造りになっている。もう外から窓に板を打ち付ける必要なんてない。
でも、人の記憶というものは、その怖かったことをいつまでも覚えているものなのだろうなあと、デッキに降る雨を見ながら思っていた。



by PochiPochi-2-s | 2017-07-04 23:32 | 思い出 | Trackback | Comments(8)
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昨日も昼の間やんででいた雨が、夜になると再び降り始め、今日の明け方まで降っていた。
朝食後 ふとデッキに目をやると、デッキのテーブルの上に置いている父の風蘭
たくさんの花芽がつき始めているのに気がついた。

生前、父は風蘭の花が大好きで、(実家の)裏山に行っては持ち帰っていた。
裏庭に植えている木の枝や裏山から持ち帰った大きな石に、水苔を使って貼り付けたり、
小さな植木鉢に植えたりと 、風蘭の世話をするのが父の庭での最大の楽しみであった。

「この家(私の家)にくると、風蘭が生き生きしてるのがよくわかるなぁ。
わしよりお前の方がよっぽど手入れがいいのかなぁ。
今度からわしの風蘭の元気がなくなったら、こっちに持ってくることにするわ。
その方が風蘭も喜ぶやろう」
父は笑いながらよくそう言っていた。

「こっちに来てよく見てみ。 同じ風蘭でも、茎の色が違うんや。
この赤い茎の花は少ないから珍しいんや。花にもほんの少しだけ赤い色が出てくるはずや。
赤い茎の花と緑の茎の花を混ぜて石にくくりつけといたから、咲いたら楽しみやで」
また、このようにも言っていた。

「本当に風蘭が好きだったなぁ。世話をしていたときの父の笑顔が忘れられないなぁ」
しばらくの間父のことを思い出し、風蘭を眺めていた。

どうしてこの花が好きだったのだろうか?
理由は聞いたことがなかった。
いつから好きだったのかきたこともなかった。
ただ家族の間では、『父=風蘭』が定着している。
桜、風蘭、鈴虫の大好きな父だった。

今日は7月1日。2017年下半期の始まりの日。
時間の過ぎるのは本当に早い!


♧ ♧ ♧


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昨日作った『ジェノヴェーゼ』で
今日はお昼ご飯に冷製パスタを作った。
トマトとジェノヴェーゼがよく合ってとてもおいしいと思った。

さて、次はこのジェノヴェーゼを使って何を作ろうかな?





by PochiPochi-2-s | 2017-07-01 21:39 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

生きている喜びを感じられるように生活したい


by PochiPochi-2-s