「あれッ、この写真の青年、知ってるわ。確か家に本がある。『わがいのち月明に燃ゆ・一戦没学徒の手記』(林 尹夫・著)ずいぶん昔、学生の頃に読んだ本やわ。まだ本棚にあるはず」
一昨日だったと思う。毎日デジタルのニュースの欄に、「遺稿ノート・死を目前にした学徒、検閲をくぐった京大生の遺稿、恋愛観・生への執着あらわ」という記事を見つけ、思わず一気に読んだのだった。
大学に入ってしばらくたった頃、友人の一人からこの本を紹介され、夢中になって読んだ記憶はある。「きけわだつみのこえ」、五味川純平「人間の条件」、尾川正二「極限のなかの人間 ・ 極楽鳥の島 」も確かその頃読んだと思う。あの頃はみんなよく本を読んでいたなぁと、その頃を思い出した。もう50年近く前のことである。
林尹夫さんは、長野県出身で旧制三高を卒業後、1942年に京都大学文学部史学科に入学。1943年12月 学徒出陣し、1945年7月28日、夜間哨戒飛行中に米軍機の攻撃を受け、四国沖で消息を絶った。遺稿ノートは1940年4月6日の高校時代から始まり死の直前まで書かれた4冊が残されている。1967年、お兄さんの林克也氏によってまとめられ「わがいのち月明に燃ゆ 一戦没学徒の手記」として出版されたのだった。
ずいぶん久しぶりに私に目の前に現れたこの本を再び手に取り、少し読みなおしてみた。「あまりにも多くの、将来を嘱望されたであろう優秀な若者達が戦争で亡くなった。こんなことは二度とあってはならない。戦後72年間、私たちの世代は、親たちの世代とは違い、憲法9条を守ることで、世界史的に見ても稀な、奇跡的とも思われる平和な時間を過ごすことができた。二度と戦争をしてはいけない。国民の努力で奇跡的に続いたこの平和を、これから先も絶対に失ってはならない。」心に深く思った。♧
「◯◯コ、戦争が終わってからまだ16年しか経ってないんや…」
戦後72年目の今年もまた、政府主催の全国戦没者追悼式のTV放送を見ながら、父の言葉を思い出していた。父がこの言葉を言ったのは、当時もTV放送されていた全国戦没者追悼式を見ていた時だった。去年も確か同じことを書いたが、当時小6(12歳)だった私には、「まだ16年しか」というこの言葉に込められた父の気持ちはわからなかった。しかし、その言葉を言った時の父の声の調子、大きさ、雰囲気など、普段の父からはとても想像できず、印象的だったのを今でも覚えている。
戦後89歳で亡くなるまで、戦争の話はほとんどしなかった父であったので、尚更この言葉が
私に強烈な印象を与え、今でも耳に残っている。
また、この年の翌年の3月、私の小学校卒業式でのこと。卒業生父兄代表で挨拶にたった父が、「本日は」の言葉のあと感極まり何も言えなくなり、長い(と私には思われた)沈黙の後ただ一言「ありがとうございました!」と講堂全体に響き渡るような大声で言い、深々と頭を下げ、自分の席に戻ってきた。
その父の姿も忘れられない。
その時も父がどのような思いであったのだろうかは分かるはずもなかったが、今なら少しは分かるような気がする。
母の書き遺した文章をもう一度ここに残しておきたい。
私は今年、この文章を書いた時の母の年齢と同じ年齢になった。
※
【昭和63年3月2日の日付で書き遺した母の「太平洋戦争体験記」最終ページから】
これを書いている間にも、テレビで中国残留孤児の放送が流されている。
未だに戦争の傷跡は消えないまま残っている。
あの人たちの傷跡は深すぎる。
そして私にも、昭和17年10月のある雨の日に、○○小で日直をしていた私のところに廊下をコツコツと歩いてきた母が、一枚の紙切れを出して夫の招集を告げた時から否応なしに引きずり込まれた戦争の、暗くていやな思い出は尽きない。
戦争はいやだ。絶対に、再び繰り返すことがあってはならない。
これだけは、体験を通して孫子の末まで訴えたいと私は思う。
平和の有難さをしみじみ感謝しながら、明日の雛祭りに備えて私の68年前の内裏様、38年前の娘のお雛様を飾りながら、いつまでも明るい時代が続くよう祈るものである。
いくたびか 巡る春にも 年老いし
野梅の花にも 銀の雨降る
2017/8/14 早朝の空