(10/3の夕焼け)
先週 森武生さんの随筆「夕陽」(ゆうひ)を読んだ。
今回の随筆は、若い頃、山に登っていて何回も出会った印象的な夕陽についての文章から始まり、途中で両親の人生の黄昏についての文章に移行、最後は自分の黄昏への道について書いている。
この随筆の中で一番惹かれたと箇所は、
やはりご両親の黄昏について書かれていた部分であった。
森氏の母は、人生の後半40年をパーキンソン病と雄々しく闘い続けた。彼女の天職である日本料理の師範と仮名文字の書道師範にとっては、パーキンソン病は致命的であったがそのことを苦にする風も見せず、いつも明るく振舞っていた。病がだんだんと進むにつれ、歩行不可能になり発語も不自由に。たまに両親を訪ねると、母だから言える言葉をいつも言っていた。「武生、元気… 患者さんにやさしくするのよ… 外で喧嘩しちゃだめよ…」と。母親と姉妹のようであったお姉さんが献身的にお母さんの世話をしていたが、そのお姉さんが自分の家に帰ったほんの少しの間に眠るように息を引き取った。斜陽になりつつはあったが、最後まで家族の太陽であったという。
森氏の父の黄昏は、妻の介護を行うことと、南京事件の真相を明らかにすることに費やされた。90歳近い身での献身的な妻への介護には頭が下がった。碁とゴルフを純真に楽しみ、最後まで頭ははっきりしていた。彼も誤嚥性肺炎から3ヶ月程寝たきになったが、その最後も看護師の見回りの5分間の出来事で、誰も見ていないという。
随筆を読みながら、父と母、高齢の知り合いや友人、近所の高齢の方達等を思い出していた。
父の戦後の生活は、以前にも書いたように、まるで神様からのプレゼントであるかのような穏やかな生活だった。誰かと競争することもなく、他人を出し抜いてトップに躍り出たいという欲望もなく、金儲けに邁進することもなく、ただただ毎日を淡々と生きていたように思う。今在ることを喜びながら生きていたように思う。花や木が好きで、小動物が好き、小さい子供が大好きでよく近所の子供の遊び相手をしていた。優しい目をした人であった。小さかった私はそのような父が大好きで、いつも父の後について歩いていた。父の最後は見事であった。亡くなるその日の朝までどこといって悪いところもなく元気で、介護もなく頭もはっきりしていた。しかし、最後の日はいつもと違い、少し調子が悪いと、同居している弟に病院に連れて行ってもらった。土曜日の朝のことだった。翌日は日曜日なので 念のため入院し、様子を見ましょうかということになった。体調はすぐに元に戻り、その日は一日中元気でよく話していたという。夜11時過ぎ看護婦さんが見回りに来た時も冗談を言って笑っていたらしい。父の様子が突然おかしくなったのは、その直後だったらしい。本当にあっという間の出来事で、子供3人の誰にも会わず一人で亡くなってしまった。
母が先に逝ってから4年。最後まで何一つ文句を言わず、ニコニコと笑顔で、しかし背筋を伸ばして淡々と生きていた。私の大好きな父だった。
母の晩年は糖尿病との闘いだった。糖尿病からくる眼底出血、突発性難聴、心筋梗塞等様々な症状に悩まされていたが、いつも明るく、歌を詠むのを楽しみ、頭を上げて前ばかりを見て生きていた。最晩年の2年間は ICU→個室→普通病室(4人部屋)の繰り返しだったが、倒れても倒れても復活し、また元の普通の生活を2ヶ月でも3ヶ月でも続けるという強い意志の持った女性(ひと)だった。本当の強さを教えてくれた。
自分の生き方をしっかりと持ち人生の黄昏を生きている人は何も自分の父や母だけではない。見回せば、私の周囲にはたくさんの人たちがいる。ドイツの高齢の友人
メミング夫妻、中学時代の恩師
A先生やS先生。S先生は結婚5年目にご主人を癌で亡くされたが二人の娘を立派に育て上げ、今なお80歳近い年齢にもかかわらず、娘から要請があれば阪和道・近畿道の高速を使い和歌山紀の川市から豊中市まで自動車でやってくる。どこからこんな元気が出るのだろうかと思えるほど華奢なひとだが、彼女もまたしっかりした生き方を持ち、黄昏を素敵に生きている。
さて私の黄昏への道はこれから始まる。(いやもう、始まっているかもしれないが)
どのような黄昏への道を歩むことになるのだろうか。
たくさんの素晴らしいお手本を参考に、じっくりと考えてみたいと思っている。
最後に再び森武生さんの随筆「夕陽」から。
山梨の山小屋の夕陽は美しく荘厳である。夕方に近づくにつれて、雲は灰色から真紅になり、最後の光が南アルプスの稜線に沈むと稜線のスカイラインが突然金色に輝き始める。そして東の空は見たこともない薄紫に色を変え、そしてまた、あっという間に金色の稜線も紫色の空も黒と灰色の中に埋もれてゆく。山の夕陽、大コンチェルト終章である。