秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる
(藤原敏幸)
立秋が過ぎても日中はまだまだ暑い日が続いているが、
朝夕に感じる風、空気にはなんとなく"涼しさ"が含まれているような気がする。
今朝 庭の花に水遣りをしていた時、ふとこの歌が心に浮かんだ。
午後3時過ぎ、なんとなく空を見た薄〜く月が見えた下弦の月
昨日絵の教室の帰り、いつものように立ち寄った駅前の本屋さんの雑誌のコーナーに
小さな雑誌を見つけた。「明日の友」(婦人の友社・223 夏・2016)
以前にも
このブログで書いたが、毎号、この本には「メスとパレット」の著者・森武生氏(外科医)のエッセイとスケッチ画が掲載されているので、見つけるとよく立ち読みをする。昨日も立ち読みをしようとページをめくったとき、偶然このメッセージの文章が目に入った。見開き2ページと短いが、書かれている内容に心をうたれ、思わず買ってしまった。
今日はこのすばらしい文章をここに書き写し、いつでも読み返したいと思った。
*
101歳のジャーナリストのメッセージ
憲法9条を平和への道しるべに
むのたけじ
今、私は病院のベッドの上にいます。ほんの2ヶ月前までは、体調を崩す心配などほとんどしていませんでした。100歳を超えていますから、いつどうなってもおかしくないと思ってはいましたが、自分の体の機能がこんなにも衰えてしまったと気付いたときは、やっぱり悲観しました。
でも、死ぬっていう気はしなかったな。命の問題をたえず話してきた人間として、「自分で生きようとする目的と意思があれば立ち直れる」と思っていました。今回ばかりはなかなか自信が持てなかったけれど、1週間くらい前から「大丈夫だぞ、生き返るぞ、まだしばらく働けるぞ」という声が、どこからか聞こえてきたんです。
そのとき一番力になったのは、同じ思いで世の中を変えようとする、たくさんの仲間
がいることでした。倒れる数日前の5月3日、私は東京有明の憲法集会で、約5万人の
参加者を前にマイクを握って話をしました。あの場所で、「戦争を絶滅させよう。
憲法9条こそが人類に希望をもたらす」と、国民の一人として、残りの人生をどう
生きるか約束した。それがとても自分を支えたんだな。
非常に悲観すべき状態にありながら、他方では激しく励まされていたのです。そして、なんとか復活できると思えるまでに回復しました。
戦後、日本に新しい憲法ができたとき、当時の多くの国民は9条を「戦争で迷惑をかけた国々へのお詫びになる美しい旗印」だと受け止めました。その一方で9条は、連合国からの、「国家として認めない」という罰則でもあったわけです。「軍隊を持つな、戦争をやるな」というのは、現代国家としては死刑判決に等しいものでした。光明の絶頂と暗黒のどん底が同時にあるようなものですよ。
しかし、実際に憲法9条を守ることで、日本はこの70年間戦争をしなかったし、他国の人もだれ一人戦死させませんでした。それをしっかり受け止めることが、日本人の持っている賢さじゃありませんか。9条こそが平和への道しるべとなることを、もう一度、多くの人たちにかみしめてもらいたいのです。
私の体は弱ってしまいましたが、ジャーナリストとしての頭の働きはまだ成長を続
けています。長く生きていれば経験が増え、過去には見えなかったものも見えてき
ます。
今、日本は大きく変わろうとしている。その動きが始まってしまったことに、国民はみんな気づいているでしょう。だから私も黙ってはいられません。また元気を取り戻し、みなさんと語り合う場所にもう一度立ちたいと思っています。
(2016年6月18日談)
【むのたけじ】
(「明日の友」から拝借) 1915年秋田県生まれ。東京外国語学校スペイン語科卒業。
朝日新聞の従軍記者としてインドネシアへ。
'45年週間新聞『たいまつ』を創刊。'78年の休刊後も著作や公園で活躍。
近著に
『日本で100年、生きてきて』
『むのたけじ100歳のジャーナリストからきみへ』
などがある。
*
12年前に亡くなった父が生きていたら、むのたけじさんと同じ101才。
きっとむのさんと同じ考えだったことだろうと思った。
私は戦後生まれの団塊の世代に属するが、戦後70年間、憲法9条のお陰で一度も戦争がなかったことの恩恵を十分に受けて育った。世界史的に見ても、非常に稀な、信じられないほど平和な、戦争のない70年間だった。
今日本は大きく危険な方への方向転換をしようとしているように思えてならないが、
この憲法9条を守り、平和への道しるべとして次の世代に伝えれるよう努力したいと
思う。