一、李(すもも)10個 ー 5,000余円
「おとうさん、こわかったァ」
「おとうさーんッ、(ワァーッ)」
ノートルダム寺院前での「難」は免れた。移民の子供達(アルジェリア人?)を一喝。自らも同胞としての悲しみをこめ、「不始末」を謝罪してくれた男の人。言葉は通じないが彼の気持ちは理解できた。
"Merci beaucoup"(メルシ・ボクウ「大変ありがとう」)と即席フランス語でお礼を言った。彼が来てくれなかったら…と思うだけで背筋が寒くなる思いである。
地下鉄(メトロ)の駅雑役、早朝の街での清掃等、「花の都」の舞台裏で働く人々 ー 成程「大きな問題」だ ー ほとんどが、有色人種である。
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「ノートルダム事件」後一息、子供達のショックも癒え、元気回復。さあ出発。
セーヌ河左岸を漫(そぞろ)歩き。ソルボンヌ大学へ。街中は何処を歩いても石造りの建物。鉄製透(すか)しのバルコニーに「1862」の金文字。数字が物語るは 建築年代。そんな「年代もの」がほとんどと言っていい。街すべてが由緒に満ちている。
ソルボンヌ大学付近はやはり学生の町。シャンゼリゼ通りと異なり「ブランド」は姿を消し、Gパン、Tシャツのキャンパス・ルック。
カフェテラス、本屋、果物店。「生活」の匂いが溢れ、強い親しみを感じた。
「おいしいッ!」久しぶりに食べる新鮮な果物。ベトナム人(?)の経営する店で買い求め、マロニエの木の下のベンチで食べる。
「これ安かった。128fr」
「………。えッ。12・8frの間違いやろッ。5,000円の李……」
「×40」を忘れる経済感覚たるや!それ以後勘違いなく気をつけたことを考えると、妥当な授業料であった。
二、Gare de Lyon (ガレ・デ・リオン・リオン駅)
7月23日(金)、パリを立つ日が来た。前夜飲んだワインが効いたか、久しぶりに熟睡できた。気分爽快。早くも心はスイスへ。ホテル「ポエシー」はシャンゼリゼ大通り近く。早朝より深夜まで車の騒音が絶えない。にもかかわらず、三人はよく眠る。「『静か』を条件に入れていないから」なんてなじられ、しょぼん。
ワインこそ我不眠の悩みのよき理解者なのか。
かの「田中金脈」で有名な立花隆氏の「ガルガンチュア風暴飲暴食の旅」(文藝春秋 '84・8)とまではいかないにしろ、本場のワインを毎夜「不眠」にかこつけ賞味できたことは、思わぬ収穫であった。
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パリ発12時30分のT・E・E(欧州横断鉄道)に乗車し、スイスへ向かうことにした。列車名は、"Le Cisalpine"(ル・シザルパン「アルプスの彼方」)。購入済みの「ユーレイル・パス」に「乗車開始」証明と日付を打ってもらう。これは簡単に済ませることができた。
次に座駅の予約である。まずインフォメーション(案内所)を捜し、「英語」職員のカウンター前で順番を待ち、「アドバイス」をもらい、予約カウンターへ。職員が勘違いをしたのか、TGV(新幹線)のカウンターを教えられ無駄足。再びインフォメーションへ。二転三転の末ようやく目当ての窓口へ。何と最初に行ったTGVカウンターの柱の影にかくれた目立たぬところ。駅について約2時間走り回っていた。"It's a great pity." (大変お気の毒) 私たちの様子を察してイタリア紳士が声をかけてくれた。「商用でミラノへ行きます。お宅はどちらまで」「ええ、スイスまで。ローザンヌで泊まろうと思っています」「ローザンヌ? ああ美しい町ですよ。でも少し遠いですがモントレーがいいですよ」「それじゃモントレーまで行くことにします」という訳で旅先は決った。(続く)
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長男が毎日書いた「あのね日記」より(「あのね日記」は 担任のS先生から言われた唯一の夏休みの宿題)
4月に入学し、習い始めた平仮名のみで書いた日記。TEEは書けないので右上の隅に「お手本」のTEEの文字が書かれている。
赤い字で書かれているのは、帰国後担任のS先生が1日ごとに書き込んでくださった感想文。
左横の細かい字は、私自身が書き込んだその日の旅行の感想。今読み返すと、「ああそうだったんだ」と思い出すことが多い。