“きわめる” - ある小雑誌の記事より -
2015年 06月 17日
技術的な部分の極め人を観て、凄い腕だと感じ入ったことがあります。いつも観ているならもっと違う言い方をしたかも知れないのに、何かのついでに観ている私は、見方も極めていません。
究める、窮める~ということは苦も伴うのでしょうね。
楽しく始めた趣味でさえ、楽しさを超えると苦しさも感じて、何かハードルの高さを感じるようになって、やがては楽しさの次の階段を一歩上がったような手応えを感じるようになりますよね。
そんな思いを何度も何度も、そう階段を何階も、何階も登っていけると、極めるものが得られるのでしょうと思っていますがどれもそこまで行くのは難しい。所詮、「素人」、その域は超えない場合が大部分でしょうね。
ある程度の苦しさを味わい自己満足であっても、あれば達成感が伴う嬉しさで、良いかと自分の限界(才能)を見極めてしまっています。若ければ…、これから先があるのでしょうが。
そういえば、日本画の分野で友だちというか同じ学んだ仲間が、新聞社のカルチャーセンターで講師を務めておられます。海外にも写生旅行を募って出かけておいでです。一筆自分の作品に添えてもらうと立派な作品になるとか…。それで何十万円とかお礼をするんだとか聞いたことがあります。
それが玄人の域に及んだということを言いきってはいけませんが、趣味の域を出ることは、一つはその分野での収入を得ているということで、作家・○○家と周囲も認める実力と言えるのかしら。極端にみるなら、それが一面での判断材料と言えるのでしょうか。
そうですね。
最後は、そのことで“お金が稼げるかどうか”という点で判断
されるのかな?
絵の先生、スイミング教室の先生、書道の先生、英語の先生…
みんなそれぞれの技術を教えることでお金を稼いでいますね。
でも、これは、そよぎさんもおっしゃるように、判断基準の
なかの一つであって全てではないと思っています。
自己満足であっても、自分で納得いけばそれでいいかなという
のが本音です。絵なんて、好きか嫌いかで別れるものだと思っ
ていますので。
自分で楽しめて、熱中できればいいかな?
今は そう思っています。
私の先生も朝日カルチャーの先生ですが、 “名前を売る”ことに
かけては全くと言っていいほど能力がない(?)人で、欲があり
ません。友人のいるドイツでの展覧会開催を勧められている
のですが、全く動こうともされません。でも、絵はすごいですよ。
「Dekoさんは凄い!」といつも思ってます。
どうしてそんなにたくさんの花の名前が覚えられるのですか?
見た瞬間分かるのでしょう?
その能力たるや、凄いです。
伊吹山はユウスゲで有名です。
友人のなかには、どうしても見たいからと言って、高速を
自動車をとばして見に行く人もいます。8合目付近まで自動車
で行けるのでしょう?
昨夜、BSで、イギリスの湿原地帯の映像を見ました。
車山高原、霧ヶ峰、八代湿原を歩いてみたいなぁ〜と
思いながら見ていました。今までたった一度だけ、
車山高原で一面満開のニッコウキスゲを見たことがあります。
その光景をいまだに思い出します。