さくら さくら 野山も里も 見わたす限りかすみか雲か 朝日ににおうさくらさくら 花ざかり
さくら さくらやよいの空は 見わたすかぎりかすみか雲か 匂いぞ出ずるいざや いざや 見にゆかん
オオカンサクラ
やっと完成満開になったかな
*
毎年 3月も半ばを過ぎると、私たちは 桜の開花予報、桜前線の情報に一喜一憂する。「なんで日本人はこれほどまで桜が好きなのだろうか?」
もう10年以上前の古い本だが、平成15年出版の文藝春秋・特別版(3月臨時増刊号)『桜 ・ 日本人の心の花』を読んでいたとき、おもしろい記事を見つけた。
特集・桜ものがたり『散ればこそ……』 (森本哲郎・評論家)
桜の花の魅力は、散るところにあると私は思う。どんな花でも、みな散るではないか、と言われそうだが、桜ほど見事に散っていく花は、ほかにない。その落花の風情が日本人の心をひきつけてやまないのだ。かく言う私も毎年、その花吹雪のなかに立つことを、このうえない夢としている。じっさい、桜を詠んだ歌や句はおびただしい数にのぼるが、その多くは散り敷く情景をうたっている。…………………………………………………………………………「みよし野の高嶺の桜散りにけり嵐もしろき春のあけぼの」(後鳥羽院)これこそ美の極致ではないか。 ………………………………………………日本人は仏教から無常観を学んだが、それを「無情感」として受け取った。無常観とは万物ハ流転スルという世界観であり、それゆえ、その背後には永遠への救いが希求されている。しかし、日本人は「無常」があきらかにされると、あっさりあきらめ、それを無情として詠嘆することで安住の道をえらんだ。仏教の無常観はインドのように哲学の道を歩むことなく詩歌の世界へ向かったのである。そこで、桜がその心情を託すことのできる“依代”になったのではなかろうか。「三日見ぬ間に」咲き、三日見ぬ間に散ってしまう無常この上ない花だからである。そこで日本人は桜前線を気にかけ、それが到達するや待ちかねたように花見に興じる。花の下で宴を開き、群衆が興奮を共にするというような風景は、他国ではあまり見ない異様とも言える独特の習俗であろう。…………………………………………そう、花見とは日本人にとって意識する、しないにかかわらず「祭り」なのである。無常の花の下で「憂き世」を忘れる年に一度の行事なのだ。私はその証を、桜に心を奪われつづけた歌人西行に見、伊勢内宮の神官だった荒木田守武が「末期に」洩らしたという辞世の句に見る。彼はこう詠んでいるのだ。「散る花を南無阿弥陀仏と夕哉」
「そうなのだ。森本氏の言う通りかもしれない」そう、思った。
辻邦生の『西行花伝』を夢中で読んだ時もあった。母は桜を蹴散らすかのごとく、花吹雪のなか逝ってしまった。あの時の桜吹雪は未だに忘れることができない…母は 西行の歌が大好きだった。「『願わくば』の歌のように私も、春、花の下で死にたい」よく そう 言っていた。
桜の花は、本当に、人を感情的にさせる。
最後に大好きな東山魁夷の桜の絵を。
京都円山公園の桜の木に感動して描いたといわれている。
生きている喜びを感じられるように生活したい
by PochiPochi-2-s