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"Auld Lang Syne"

春が来た!


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今日初めて『ヤマルリソウ』が咲いた。


今日の「マッサンとエリー」、一馬の出征をみんなで祝う場面だった。
最初は『蛍の光』をみんなで歌った。
次に熊さんの挨拶になった時、
突然、熊さんが 『Auld Lang Syne』を歌いだした。
慌てて扉を閉め、その場にいたみんなで“再開を誓って”この歌を歌った。
どの人の目にも涙が溢れていた。
テレビを見ていた私も、ついもらい泣きしてしまった。

Should auld acquaintance be forgot,
And never brought to mind?
Should auld acquaintance be forgot
And auld lang syne?

忘れがたき古き友よ
思い出すことがなくとも
忘れがたき古き友よ
どれだけ時間が経とうとも

……………


歌を聞いていて、母が書き遺した父の出征時の文章を思い出した。

赤紙がきた時、父は近衛兵で皇居におり、母は国民学校の教師で、
当日は日直当番で学校にいた。
祖母がその赤紙を手に持ち、トボトボと母の勤務する学校に来たという。
「とうとうこの日がやってきた…」
気丈だった祖母の一声。どんなにか心細かったことだろうと思う。

その後、何日かして、電報がきた。
「オオサカノ スイタエキヲ ツウカスル。ソコデ アオウ」
父からの電報だった。

しかし、母も祖母も、周りの人たちも
「スイタエキが 大阪の何処にあるのか」を知らなかった。
和歌山弁では「スイタ」は「人があまりいない。混雑していない」を意味する。
「大阪の、いったいどこの駅に行けば、‘人が混雑していない’のだろう?」
とにかく大阪に行き、大阪の人に聞けばわかるだろうと、母と祖母は大阪まで行き、
たくさんの人に尋ねたという。
「ああ、吹田駅の操車場と違うかな。あそこには軍用列車が着くというらしいで」

母と祖母はすぐに教えられたとおりに吹田駅操車場へ向かったが、残念なことに
列車は通過した後で、列車は門司行きだったと教えてもらった。
一瞬迷ったが、軍港のある門司まで軍用列車を追いかけて行ったという。

「念ずれば通じる」「地獄に仏」とはこのことかと後々母はよく言っていたが、
その時、偶然にも、母がたった一人だけ知っていた父の部下に出会い、彼が、
父を連れてきてくれ、幸運にも再会ができた。
『一生の劇的な一日であった』
後に、母は この日のことをこのように記している。

「今夜乗船して夜明けまでに出航する。乗る船は対馬丸だ」
「海岸の税関通りに6列に戦車を並べているからこちらから歩いてこい。
その戦車の中で一つだけテールランプのついているのを探せ。
それがわしのだからそれを目当てに来いよ。それでお別れだよ、わかったか」
乗船して出航する前夜、父は言った。

早朝、夜明け前、言われた通りに暗闇の税関通りを東へと歩きだした母と祖母は、
やっと暗い僅かな小さい灯を見つけ走り寄った。
薄暗い光の中で 父は母と祖母に挙手の敬礼をした。
「ご苦労さん、気をつけて帰れよ」
それが出港の言葉であっったらしい。

偶然の、たった一人だけ知っていた人との出会い。
「この時ほど神仏の加護と言おうか 人間の出会いの有難さを強く感じたことはない」
母は、よく言っていた。

まるで映画のワンシーンのような別れ。
母のことだから、文章に残すにあたって少々の誇張があるかもしれないが、
70年以上前の本当にあった話。

父は、輸送船がないという理由で、運良くニューギニアには渡れず、
ボルネオ島のすぐ南の小さなハルマヘラ島で終戦を迎えた。
「父が帰ってこなかったら、私は生まれていなかった」と思うと、
今こうしてここに存在し、生きていられることの幸せを思う。

今年は、戦争が終わって70年目の年。
社会の雰囲気はなんだかおかしくなりつつあるように感じられてならない。

父や母、祖母の時代の人たちの苦労を思い出し、今一度立ち止まって
「どういう社会、日本の国にしたいのか」
を考えなければならないように思う。

可愛い盛りの孫たちが戦争に行かなくてすむように行動しなければならない。



Commented by weloveai at 2015-03-06 20:09
今朝 同じよう熊さんの歌を聞きました。
お父様は私の父と同じ年周りでしょう。
父は停車場司令部にいて兵隊さんが通過する列車に必要な物を手配する事務の仕事をしてました。
招集されて炊事当番をしてる時に上官に呼ばれ事務につくように命令され戦地の経験がなく終戦になりました。
写真を見ると痩せこけた白い顔の兵隊さんでした。
終戦の処理が終わるまで長くとどまって帰宅はだいぶ後だったと聞きました。
PochiPochiさんのご一家の様に一目あって最後のお別れと、同じような経験をした家族は数えきれなかったでしょう。

この国の指導者は経験した事を学んでません。
戦争にしても原発にしても、未来の人の為に私たちは何をしなければいけないか考えたいですね。




Commented by PochiPochi-2-s at 2015-03-07 18:57
ゆすらうめ様、

本当にそうですね。
今のままでは、「宇宙戦艦ヤマト」や「風の谷のナウシカ」のような世界
になってしまうようで恐ろしいです。
手塚治虫の「火の鳥」に登場してもらって火の粉を日本中に撒き散らしてほしい
気がします。もう一度、歴史を初めからやり直すように。

父や母の世代の苦しみや辛さを無駄にしないためにも、何をしなければなら
ないのかをよく考え行動しなくてはと思います。

父は大正4年生まれ、母は大正8年生まれでした。
私は、二人が結婚してから8年目に初めて生まれた子供です。
Commented by Deko at 2015-03-07 20:58 x
そういう時代の時にお母様とお父様が出会う事が出来たのは必然だったからでしょうね。きっと祈りが通じたのだと思います。両親は大正3年生まれでした。同じ時代を生きたのでしょうね。父は戦争の事もあまり語らず東南アジアに旅行に行く事もしませんでした。色々な思いがあったのでしょうか?一人ひとりが平和の大切さを考えてほしいです。
Commented by PochiPochi-2-s at 2015-03-08 12:52
Dekoさん、

両親が同じぐらいの年だったのですね。
少し驚きました。
私の両親は、昭和16年に結婚したのですが、父は東京に、
母は和歌山にと、それぞれの仕事のため別れて暮らし、
結局は終戦後、結婚して8年後に、初めての子どもの私が
生まれました。

私の父も、戦争に関しては、ほとんど何も話しませんでした。
ただ母には よく話をしていたようで、その話を母から聞いたり、
また母が書き残した小冊子から知ったりしました。

「同期の桜」「海ゆかば」の軍歌は「聞きたくもない」と言ってた
のを覚えています。

平和であることの幸せを、感じています。
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by PochiPochi-2-s | 2015-03-06 17:27 | 思い | Comments(4)

生きている喜びを感じられるように生活したい


by PochiPochi-2-s