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ある日の主人がつくった朝食



「えっ、この記事… おんなじことやっている男の人(夫)がいるのだ。
しかも2人とも80代。びっくりやなぁ…」

絵の帰り、ちょっと思うことがあり気分を変えるためにいつものように本屋さんに立ち寄った。
「この雑誌、発売日は昨日だったんや。
ここ一週間、あまりにもセンニンソウの絵のことばかりで頭がいっぱいやったから
気がつかなかったんやわ」(※ 「婦人の友」10月号・2017 October)

ふっと手に取りパラパラとページをめくった。
その時この言葉、「これはまかせて。朝食づくりは夫の仕事」が目に飛び込んできたのだった。

記事は退職後奥様に代わって朝食作りを始めた2人の男性(共に80代)が紹介されていた。

【一人目・A】
・17年前のリタイア後、奥さんに朝食づくりを申し出て、快諾を得て以来、食材の買い出しから食後の食器洗い、収納までを担当している。
・最初に伝授されたのは1日の食費予算と食品の目安量。
初めはハカリで野菜を一つひとつはかるところから。今は目ばかり・手ばかりができるようになった。
・散歩がてらに近隣のスーパーを覗くうち、同じものでも大きく値段が違うことを発見。
現在では、底値が頭に入り、ほとんどの食材調達は夫になった。
・夫が朝食づくりをしている間に奥さんはテレビ体操、掃除を終える。7時に食卓に。

お互い、自然に「お疲れさま」の言葉をかけ相手をねぎらい、和やかに会話が弾むという。
朝食づくりを始めたきっかけは、退職後、ふと、飲み会で言った先輩の言葉・「定年がない妻を思い朝食づくりをしている」だった。

《朝食》
おかゆ、おかゆに入れるトッピング、野菜7種類以上、温泉卵、 チーズ、果物。
《妻の意見》
・在職中はほとんど食事づくりとは無縁だっだので、将来一人になっても困らないようになればと歓迎した。
・幸いこの17年間1日も欠かさず続き、夫が夫妻の日は必ず妻の分が用意されている。

【二人目.・B 】
・夫81歳、妻79歳。
・単身赴任中の料理の腕を磨く。
・8年前(73歳)から朝食担当する。
・最近妻は腰や肩を傷めて軽々と家事をこなすのは難しくなったが、
朝食の準備を手助けと考えたことはない。
・つくりながら、味わいながら、海外や国内の赴任地で出会った人々とつながっているひと皿を作り続けている。
・あわただしく朝食をとる必要がなくなったので、1日の始まりを妻とゆっくり楽しむ。

《朝食》
オムレツ(その時々のアレンジ有)、ベーコン、野菜サラダ、妻の焼いたパン、果物とヨーグルト、コーヒー。
《妻の意見》
・仕事で東南アジアはじめ、国内、各地で生まれたつながりが献立にも生きている。
・夫は1日3食の後片付けにごみ出しもななくこなす日々である。
・お互いに感謝を口にすることを、忘れないようにしている。

まず朝食づくりをする夫の年齢に驚いたのだった。
そのうえ、つくられた朝食のバランスの良さ。
「これは負けてはいられない」と思うような朝食である。

私の家の場合は、ひとまわり年上の友人の一言(「主人の退職後、『映画のワンシーンのように一生に一度でいいからベッドで朝食をいただきたいのよ』と言ったら、朝食担当になってくれたのよ」)を聞き、主人が朝食をつくるようになったのだが、完全退職後朝食をつくり始めた当初に比べ 、最近はぐっと上達したように思う。
「男性もやればできるのだ。実際、学生時代のクラブの男子たちはみんな料理ができたじゃないか。合宿のため必要に迫られてだったが」とこの記事を読んで改めて思った。
また.自分の主人の日々の努力と、夫の料理訓練に励むブログ友や彼女の友人たちの奮闘ぶりを思い出していた。

このタイトルのような"朝食を担当する夫族"が増え、その光景がごく普通のものになる時がいつかくるのだろうか?
妻が朝食作りから解放される日がくれば、もう少しゆとりを持つことができるかもしれない。
そう思ったのだった。

♧ ♧ ♧

ピッカピカ!
冬用の絨毯にする前にワックスがけをしてくれた。
これも、我が家では 夫の仕事。

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More あのアオツヅラフジが
by PochiPochi-2-s | 2017-09-14 23:26 | 思い | Trackback | Comments(8)
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昨日のウッドデッキの雨


昨日は久しぶりの雨。ほぼ一日中降っていた。
時には激しく、時には弱く。
しかし、今日は朝から気持ちよく晴れた。
8時過ぎ、気温は21度。
心もち涼しいなぁと感じるくらいだった。

「やっと涼しくなってきたから、気分を変えて西宮までドライブしようか?
ポプラの日替わりランチが《サーモンのポアレ トマトのオーブン焼きパルサミコソース》や」

確か去年も一昨年もこの夏が終わり秋が始まるこの頃に行ったなぁと思いながらも、気を遣って言ってくれてるのだろうと素直にランチに行くことに同意した。
他にも理由があったからだった。
レストラン・ポプラの入っている同窓会館のロビーに飾られている東山魁夷の『山嶺湧雲』(リトグラフ)を久しぶりにじっくりと鑑賞したかったからだった。


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「山嶺湧雲」 (リトグラフ) / 東山 魁夷
(ウェブサイトから拝借)


この画は1998年同窓会館の完成を記念して夫人の東山すみさんより寄贈された。
この会館に来ると、必ずこの絵の前に立ち、しばらくの間じっとみつめてしまう。
山の嶺々の間から湧き出る雲、その様子、雰囲気、色使い。
それら全てにひきこまれてしまう。
まるで自分がこの絵の中に溶け込み、そこにいるかのような気分になる。
そのたなびく雲や、流れる空気、時にはその空気に含まれる湿り気さえも肌に感じる。
魅了されてしまうのである。
何故なのだろうか?
いつも心の中で思ってしまう。

2、3日前から東山魁夷『日本の美を求めて』を読んでいる。
「自然と色彩」という章の中で、彼は日本の風景の色彩について次のように言っている。
(「峠の道を、いま私は登っていく」という文章の後に様々な峠の心象風景を文章にして描いている。)

これはどこの峠というわけではなく、風景の色彩について語ろうと思った時、私の心に浮かんできた情景であり、どこにでもある峠の風景である。日本列島は程良い緯度に位置し、南北に長い地形を、背骨のように山脈が縦走している。湿潤な気候を持ち、樹木の種類も多く、よく繁茂している。このような条件から、日本の風景は極めて多彩な面と、同時に統一されて見える両面を持つと考えられる。
亜熱帯的な景観から亜寒帯的性格を持つ風土に及んでいて、四季の推移が鮮やかである。また、高い山が多く、山頂には雪、中腹は紅葉、麓はまだ緑という情景によく出合うことがある。
しかし、湿潤な気候は霧や霞を伴い易く、大陸性の乾燥した空気の中で見る鮮明さとは違い、抑制された柔らかみのある独特な色感が生まれるのである。
多彩と淡白、華麗と幽玄という対蹠的な性格を併有し、きめこまやかで味わい深いという点で、世界にも比類の無い風景といえる。美術史を見ても、大和絵の優雅と、水墨画の枯淡があり、等伯、宗達、光琳のように、一人の画家で色彩画と墨絵との両面に、優れた作品を残した例も少なくない。これらの画家が最も日本的な巨匠と言われるのは、あるいは日本の風景の色彩の特質を、高度に生かし得た点にあるとも考えられる。

この文を読んで 、なぜ『山嶺湧雲』の絵に魅了されるのか、その理由がほんの少しだけわかったように思った。
彼の、日本の風景への憧れとほめたたえる気持ち、日本の美を探求する心からくる日本の風景への深い洞察が絵に反映されているのだろう。

ランチのあと、この絵の前に立ち、気のすむまでじっと鑑賞することができたのは、幸せなことだった。

またこの絵を見たくなったらいつでもここに来れると思うと、
嬉しくて心が弾むのであった。



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サーモンのポアレ




by PochiPochi-2-s | 2017-09-08 23:38 | 思い | Trackback | Comments(4)
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異常に暑く、あちこちに豪雨の爪痕を残しなが8月はもうあと5日ほどで終わろうとしている。
8月は広島の日、長崎の日、終戦記念日と続き、その上にお盆があり、普段以上に何かと考えることが多い月になる。

先月半ば、運転免許証更新に必要な講習会受講のために図書館に行った。
少し早く着いたので図書館のオープンスペースを見ると、古本市が開かれていた。
初めて見る催しで、どのような本があるのか気になったので、立ち寄ってみることにした。
そして偶然この本、「モルダウ川河の淡い影」に出会ったのだった。

表紙に大きく書かれた『モルダウ河』という赤い文字と写真。
1968年8月、突如侵攻してきたソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍に踏みにじられた
プラハの光景であった。
表紙に巻かれた帯に書かれていた言葉、「ナチスドイツの陰に翻弄される一日本人音楽家と
チェコの歌姫」も写真と共に私の心を一瞬にして捉えてしまったのだった。

読み始めると一気に読んでしまった。
堀江一也の「プラハの春」の時は、プラハという街・その歴史をまだよく知らず、地図・主人にもらった世界史詳覧を片手に読んでいたが、今回はこの時の知識、実際に訪れたプラハの街の雰囲気、地図もよく分かっていた。それだけに、書かれていた内容に受けたショックは想像以上に大きかった。
この本の中では、戦争の残虐さ、無惨さ、人間の持ついやしさなどが描かれ、戦争とはどういうものか、人間の心をどれほど破壊しつくものかということを二人の主な登場人物を通して描かれている。

物語は1968年8月のプラハに始まり、その時主人公が見たある人物との関連から、物語はこの時から更に30年前の1938年(昭和13年)のプラハへと移行する。ヒットラー、ナチスの台頭、政権の掌握、ポーランド侵攻、チェコ侵攻。ナチス統治下でのプラハの人々の生活へと話は移っていく。
常に大国の狭間にあり、事あるごとに侵略され、抑圧され、弾圧され、強制的に従わされる小国の運命。再び、小説の中に書かれた人々の辛く悲しい思い、耐え難いと(私には思われる)日常生活、ナチスの残虐さなどを読むうちに、そこに住む人々の哀しい思い、辛い体験、時には喜び、楽しささえも、その全てを飲み込み悠々と流れるモルダウ河とその堪え難い歴史がいたるところに点在する街プラハを再び訪れたくなり、スメタナの「わが祖国・第2曲モルダウ」を聴きたくなったのだった。

最近は、日本を含め世界情勢が何だかおかしな方向へ動き始めているように思えてならない。
私たちはもう一度立ち止まり、「平和である」ということはどういうことなのか、その平和を維持し続けるためには何をしなければならないのかをじっくり考えなければならないと思う。
「意識高」と言う言葉がわかもののあいだで使われていると聞く。この言葉を使って相手を非難し仲間外れにするのではなく、もう少し自分たちの置かれている社会の情勢に「意識高」になり、行動をしなければならないのではないかと、この小説を読んで思った。
単なる小説、単なるミステリーだと言ってしまえばそれまでだが、これをきっかけに、戦争とはどういうものか、戦争になればどういうことが起きるのかを考えることができれば、単なる小説では終わらないと思う。

日本の歴史、特に現代史をきちんと知らなければならないとひしひしと感じ、歴史教育の大切さを思ったのだった。


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by PochiPochi-2-s | 2017-08-26 22:05 | 思い | Trackback | Comments(0)
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センニンソウ
(今回の課題)


昨日は絵の教室だった。

「あれッ、ここにまた喫茶店ができたん?」
絵の教室のあと長い間閉じられていた場所に再び新しい喫茶店ができているのに気がついた。
意外と細かいセンニンソウのスケッチに疲れ、ほっとひと息つきたかった。

「入ってみない? つい最近開店したんよ。
いつもは待っている人が多くてなかなか並ぶ勇気がなかったの。
今日は待つ人が少ないわ」
一緒にデパートの方へ喋りながら歩いていた仲間の一人が言った。
彼女はこの近くに住んでいる。
たまたま4人とも"今日は時間は大丈夫"だったので、 1時間ぐらいならと入ってみた。

"飲むとジェリー"というキャッチフレーズのビッグサイズのアイスコーヒーを飲みながら、
誰ともなく話し始めた。
みんな長年の絵の教室の仲間であるが、教室が終わったあと喫茶店により話をするなんて今までになかったことだった。お互いに何となく知っているようで知らない関係は、話してみると意外と意外でおもしろく興味深かった。

そのなかのひとりOさんは、お盆に子供達がそれぞれの家族を連れて帰ってきたが、嬉しさの反面、どんなに大変でストレスが溜まるかことかと延々と自分の思いの丈を話していた。
夫婦二人とも70歳を過ぎ、日々の生活も健康も何かと大変になってきているのに、子供達は一向に親の状態を気にかけず、自分たちの気持ち、考えだけでやって来て、お盆とお正月に2、3泊して帰る。滞在時のスケジュールはあくまでも自分たち(子供たち)中心で、こちらに気を遣おうもしない。自分は3度3度の食事の準備と片付けで疲れ果てる等々。

思わず結婚以来義母が亡くなるまで20年余続いた私のかつてのお正月を思い出してしまった。
毎年元旦に義姉3家族を迎えるために、年末から元旦にかけてどれだけ大変な思いをして準備し過ごしたことか。両膝関節リュウマチで身体の自由がきかなかった義母相手に、義母の代わりと時間をかけ、心を込めて一生懸命準備をした。長男の誕生日(12/31)のお祝いも満足にしてやることもできなかった。
しかし、それほど準備をして迎えた元旦の一日も、騒めきのうちに一瞬に過ぎ去り、疲労感だけが残ったのだった。

その経験があるだけにOさんの言いたかったことはよくわかる話だった。
その上、同郷。特に女性の考え方に著しく県民性が出て、よく理解できる。
物事の判断は、何事にも白黒はっきりしていて、スパッと割り切りたい。
納得しないことには我慢ができない。笑いながら誤魔化すことはできない。
バカがつくくらい何事にも正直。
それ故、他の人との、例え主人であっても、その考え方感じ方に違和感を覚えることが多いし、
ストレスを感じることが多い。スマートに生きることができない。
上手く当たり障りなくやっていこうとすれば、自分を抑えるしかない。
そのことが時にはストレスの原因になり体調を崩すことにも繋がる。

「ご主人はじめ子供家族ももう少し彼女に気を遣ってあげたなら、Oさんももっと違った気持ちで息子家族を迎えられただろうになぁ。
女性はいつまでたってもこういう会話から抜け出せないのだろうか?」

彼女の話を聞きながらそう思っていた。

「さあ、明日からはまたこのセンニンソウとの格闘だわ」
気持ちを切り替えてみんなと別れ、電車に乗った。

父母も逝き、義母も逝った。子供3人もそれぞれに独立し我が家を離れた。
残されたのは主人と二人。
時間、自由だけが限りなくある生活。
ゆとりのある、自由な気持ち、考え方で日々を過ごしたいなぁ。

そう思いながら車窓から遠くに見える山並みを眺めていた。




by PochiPochi-2-s | 2017-08-24 13:26 | 思い | Trackback | Comments(10)
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襖絵の雀


本棚を見ていてふっと一冊の雑誌(2013年出版)が目に入った。
手に取り 何気なくいつものようにぱらぱらとめくると、
優しい、しかし力強さも感じる雀の絵に目が釘付けになった。

京都・妙心寺退蔵院方丈襖絵プロジェクトで
女性絵師村林由貴さんによって壽聖院本堂の襖絵に描かれた雀の絵である。
彼女は、この襖絵のために、50mに及ぶ練習画の巻物に428羽も雀を描き続けたという。
「最初は図鑑を見て雀を描いていたが、最後は意識しないでも自然に、自由自在に描けるようになった」と、彼女は言っている。

また、完成した襖絵の説明には次のように書かれている。
「練習画の最初の頃は、音楽で言えばフォルティシモの連続のような荒削りで力強い筆致だが、
襖に直接、下描きなしで描く頃にはピアニシモで、繊細な調べ、いわば幽玄の美とでもいうべき枯淡の風情を表現できるまでに変化した」


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練習の雀の絵


改めて練習画の絵の写真を見て思った。
「なるほどなぁ。練習に次ぐ練習が必要なのだろう。
それにしても人間の能力ってすごいなぁ。
努力の結果、こんなにすばらしい、人の心を捉える美しい絵が描けるようになるのだから。
最後には意識しないでも自然に、自由自在に描けるようになるのだから」


【むらばやし・ゆき】
1986年兵庫県生まれ。
京都造形芸術大学情報デザイン学科卒業後、
同大学院芸術研究科修士課程修了。
2011年3月、
退蔵院方丈襖絵プロジェクトの公募で選抜され、
退蔵院のお抱え絵師になる。



2014年8月14日にブログを始めてまる3年が経ち、今日から4年目が始まった。
続けられるだろうか?
最初は不安に思いながらのスタートだった。
緊張しながらもなんとか続けることができ、ブログ友もできた。
3年前には考えられなかった世界が広がっていくように思えるのは嬉しくてならない。
絵師の村林由貴さんのされた努力のように私も見習って、
これからの一年間もできうる限り続けていけたらと思っている。

去年も書いたことだが、同じことをここにもう一度書いておきたいと思う。
《"決められたことを決められたようにする"ということが一番苦手な私であるが、
日々 思ったこと、感じたこと、起こったことなどを、できるだけ毎日このブログに残そうと努力した。
振り返ってみると、もうすでにそうだったかしらと忘れていることが多いのに驚く。
「記録をとっておくのも大事なことだなぁ」
正直な話、今更ながらにそう思ったのだった。》






by PochiPochi-2-s | 2017-08-14 23:45 | 思い | Trackback | Comments(12)
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キツネノカミソリ


一昨日、教室に入っていった途端、このオレンジ色のかたまりがが目に飛び込んできた。
「あっ、キツネノカミソリ」
花の色がなんとも魅力的。
去年はウバユリを描いたから、今年はこのキツネノカミソリを描いてみたい!」
しかし、2時間ではとてもスケッチしきれなかった。

今日、フローリングの拭き掃除のあと、昨日から気にかかっていたスケッチにとりかかった。
主人が出かけ全くの一人だったので、CDをかけスケッチをした。
いつの間にか絵の中に入り込んでいったが、その一方、いろんなことが心を過ぎってもいった。
広島・長崎のこと、沖縄のこと、読み終えた「モルダウ河の淡い影」のこと、小説「プラハの春」のこと、かつて行ったプラハ旅行のこと、その町での様々なシーン、最近返事かなかなか返ってこなくなった高齢のA先生のこと、戦争のこと等々。
そして、いつの間にか『むのたけじさんのすばらしい文章』を思い出していた。
昨年のブログにも書いたが、もう一度ここに載せたいと思った。
残念なことに、むのさんは 去年の8月に亡くなられた。



101歳のジャーナリストのメッセージ
憲法9条を平和への道しるべに
むのたけじ

今、私は病院のベッドの上にいます。ほんの2ヶ月前までは、体調を崩す心配などほとんどしていませんでした。100歳を超えていますから、いつどうなってもおかしくないと思ってはいましたが、自分の体の機能がこんなにも衰えてしまったと気付いたときは、やっぱり悲観しました。
でも、死ぬっていう気はしなかったな。命の問題をたえず話してきた人間として、「自分で生きようとする目的と意思があれば立ち直れる」と思っていました。今回ばかりはなかなか自信が持てなかったけれど、1週間くらい前から「大丈夫だぞ、生き返るぞ、まだしばらく働けるぞ」という声が、どこからか聞こえてきたんです。
そのとき一番力になったのは、同じ思いで世の中を変えようとする、たくさんの仲間
がいることでした。倒れる数日前の5月3日、私は東京有明の憲法集会で、約5万人の
参加者を前にマイクを握って話をしました。あの場所で、「戦争を絶滅させよう。
憲法9条こそが人類に希望をもたらす」と、国民の一人として、残りの人生をどう
生きるか約束した。それがとても自分を支えたんだな。
非常に悲観すべき状態にありながら、他方では激しく励まされていたのです。そして、なんとか復活できると思えるまでに回復しました。
戦後、日本に新しい憲法ができたとき、当時の多くの国民は9条を「戦争で迷惑をかけた国々へのお詫びになる美しい旗印」だと受け止めました。その一方で9条は、連合国からの、「国家として認めない」という罰則でもあったわけです。「軍隊を持つな、戦争をやるな」というのは、現代国家としては死刑判決に等しいものでした。光明の絶頂と暗黒のどん底が同時にあるようなものですよ。
しかし、実際に憲法9条を守ることで、日本はこの70年間戦争をしなかったし、他国の人もだれ一人戦死させませんでした。それをしっかり受け止めることが、日本人の持っている賢さじゃありませんか。9条こそが平和への道しるべとなることを、もう一度、多くの人たちにかみしめてもらいたいのです。
私の体は弱ってしまいましたが、ジャーナリストとしての頭の働きはまだ成長を続
けています。長く生きていれば経験が増え、過去には見えなかったものも見えてき
ます。
今、日本は大きく変わろうとしている。その動きが始まってしまったことに、国民はみんな気づいているでしょう。だから私も黙ってはいられません。また元気を取り戻し、みなさんと語り合う場所にもう一度立ちたいと思っています。
(2016年6月18日談)


【むのたけじ】
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(「明日の友」から拝借)

1915年秋田県生まれ。東京外国語学校スペイン語科卒業。
朝日新聞の従軍記者としてインドネシアへ。
'45年週間新聞『たいまつ』を創刊。'78年の休刊後も著作や公園で活躍。
近著に
『日本で100年、生きてきて』
『むのたけじ100歳のジャーナリストからきみへ』
などがある。








by PochiPochi-2-s | 2017-08-10 23:50 | 思い | Trackback | Comments(6)
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台風も過ぎ、朝から青空。
水遣り、掃き掃除ののちに、洗濯物を干した。
青い空のなんときれいなこと!
気持ちまで晴れ渡るようだった。

あらっ?
水遣りをしている時に気がついた。
朝顔の花がひとつ咲いていた。
しかし……
思っていた花ではなかった。
でも、よく見てみればこのきれいな色!
今日の空のような澄み切った青い色に心を奪われた。
もう少し待てば、思っている花が咲くかもしれない。
蕾もたくさんついていることだし 気長に待ってみよう。
そう思わせてくれるようなきれいな青い色だった。

今日は「長崎原爆の日」
絵の教室に出かける前の一時間、10時30分から始まった長崎平和祈念式典の放送を見、黙祷を捧げた。
今日の式典の中で、田上市長、被爆者代表深堀好敏さんの平和宣言スピーチには心うたれ、心の底から拍手を送りたいと思いました。
勇気ある行動です。

2人の平和宣言・平和への誓いをここに載せておきたいと思います。

残念なことに、祈念式典後記者会見で安倍首相は、国連で採択された核兵器禁止条約について「条約は我が国
のアプローチと異なるものであることから、署名、批准を行う考えはない」との方針を改めて述べたそうである。

同じ核の傘の下にいるオランダがこの条約制定のための会議に参加し、署名した 反対票を投じた。
(8/10 訂正と追加)
NATO(北大西洋条約機構)に加盟するほとんどの国がアメリカの圧力で会議には参加せず、棄権した中で、オランダは唯一参加し反対票を投じた。日本は参加もせず、賛否の意思表示もしなかった。

オランダができ、唯一の被爆国である日本が何故できないのだろうか?
オランダは国民の政府(国)への働きかけが強く、政府は国民の意思に逆らえなかったと聞いている。

被爆者の人たちの運動、政府への働きかけだけにたよるのではなく、私たちもみんなで力を合わせて
政府に核兵器禁止条約の署名、批准を強く、真剣に働きかけ、求めなければならないのではないだろうか?

絵の教室でキツネノカミソリのスケッチをしながら、もう一度祈念式典のTV放送を思い出していた。
誰一人としてこの式典のTV放送を話題にしなかったのは不思議だった。
72年も経てば、広島・長崎は遠いのだろうか?
オランダ国民との意識の差を感じてしまった日だった。

帰ってから次のサイトを見つけたので、参考までにここに載せておきたいと思う。
戦争を考えるきっかけになればいいと思う。




by PochiPochi-2-s | 2017-08-09 23:28 | 思い | Trackback | Comments(8)

72年前も青い空だった

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今朝の青空


一昨日被爆体験証言者とボランティアの高校生が協力して描く「原爆の絵」の制作に関してのニュースを見た。
一人の女子高校生が、一人の被爆証言者の話を何度も聞き、相談しながら 彼女の心に描く光景をキャンバスの
上に描いていく過程を放送していた。
戦争や被爆した広島の当時の街の様子というものを全く知らない若い女子学生が、被爆経験者の体験談を聞き、
一年という時間をかけて具体的な心に訴える絵に仕上げていく。
思わずそのニュースに見入ってしまった。

・今回の経験から、原爆が投下された事実をあらためて身近に感じた。
・制作した作品が、戦争や原爆の愚かさ、非道さを伝えることができたら良いと思う。
自分にできることで、原爆を伝えていくことが大切なことだと思う。
・目をそらしたくても、それが現実であったことを知ってほしい。

制作した高校生たちが語った感想である。(財団のニュースレターより)

今年も午前8時から広島市主催の「原爆死没者慰霊式・平和記念式」(平和記念式典)が行われ、放送された。
8時15分、一分間の黙祷を捧げ、7月に国連で採択された核兵器禁止条約に1日も早く署名し、
唯一の被爆国である日本の立場を生かし、非核の世界を造るため世界のリーダーとなってほしい。
今日の平和式典を見ながら、心の底からそう願った。

昨夜の天気予報によれば 、今日の大阪の最高気温は38度を越すだろうとのこと。
72年年前の8月6日もよく晴れた暑い日だったという。
当時広島高等師範の学生で、たまたま勤労奉仕で朝早く広島の町を離れ、九死に一生を得た高校時代の物理のY先生の話を思い出しながら 二度と戦争があってはいけない、二度と再び原爆投下など許してはならないとあらためて心に誓った。
母たちがよく言っていた『教え子を二度と再び戦場に送らない』を思い出す8月である。


More 蕾が♪
by PochiPochi-2-s | 2017-08-06 11:32 | 思い | Trackback | Comments(8)

ある夢

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故郷の海
(Website から拝借しました)


よく見る夢がある。

水着を着て誰かに手をつながれて砂の坂道を歩いて登っていく。
しばらくすると視界が開き、目の前に青い海が見える。
坂を駆け下りて、海に入り、浮き輪につかまり海に浮かんでいる。
うれしそうな笑顔。楽しそうな笑い声。
しかし、次の瞬間場面は一転する。
急に大波が来て見る見る間に海面が、先ほど駆け下りてきた坂の上まで押し寄せる。
ああっと思った途端、目が醒める。

その海のイメージはこの写真とそっくりな場面。
たまたま website で見つけ拝借したのだが、この海は父の実家の近くの海。
小さい私は父に連れられよく海に行った。
夢の中で私の手を引いて歩いているのは、多分 父だろう。
泳ぐのが得意であった父が私に教えたく、少々手荒な方法で教えようとしたという。
浮き輪に乗せ かなり深いところまで連れて行き、突然浮き輪をはずしたらしい。
小さな子どもにとって、泳ぐことよりもその"溺れるかもしれない"という怖さの方が先にたってしまったのだった。

その時以来、泳ぐのが怖く、せっかく海水浴場の近くで生まれ育ったのに、海の中でも足の届くところでしか遊べなかった。
昔のことに、小学校中学校は学校にプールがなく、高校は形だけの水泳の授業だった。
泳ぐ機会もなく、強制的に泳がされることもなく大人になり、3年前主人に勧められ水泳教室に通い出すまで、泳ぐ楽しさなど全くわからずにきてしまったのだった。

今年度第1回目の水泳教室が終わってほぼ 1ヶ月経った。
今日は自主練習の3回目。
いつも通りに何度か泳いでみた。
「うん? 楽やわ。なんで? けっこう楽しいもんやわ、泳ぐのも」
体が軽く、スムーズに泳げるように思ったのだった。
クロールで25m泳いでは背泳で25mかえってくる。
その繰り返しを休みながら何本か泳いでみた。
しんどくなると隣のレーンに行き25mを水中歩行。
帰りはまたレーンを変えてクロールで泳ぐ。

最後に平泳ぎの練習をした。
半分までは泳げるようになっていた。
25mを一回立ち止まっただけでなんとか泳げるようになったとは!

泳ぐって楽しいやん!
やっと水中面すれすれで呼吸することの恐怖心がなくなってきたかな?
いつか故郷の海で泳いでみたい。
初めてそう思った。

もうこれで最初に書いた夢を見なくなるだろうか。


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生まれ育った実家の近くの海
(websiteから拝借しました)




by PochiPochi-2-s | 2017-07-30 23:37 | 思い | Trackback | Comments(4)

1年生の壁、4年生の壁

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昨日の約束どおり、朝10時前には娘とエイちゃんが自動車でやって来た。
おじいちゃんや私に抱かれしばらく上機嫌で遊んだあと、
お腹が空いたのか母乳をたっぷり飲みぐっすり寝てしまった。
3時間は寝るという。
「なんて育てやすい子なんだろう」
そう思いながら可愛い寝顔をしばらくの間眺めていた。

「ここら辺、静かやなぁ。夏休みやのに子供の声が全然聞こえへんなぁ」
娘の言葉に最近読んだ記事を思い出した。
「夫婦共働きの家庭の子供たちが、両親が勤務先に出かけた後、この長い夏休みをどのようにして過ごしているか」
というような記事であった。

記事によれば、地域や学校が主催する学童保育に通わせたり、水泳、楽器、塾、英会話などの習い事に通わせたり、YMCAなどの団体が主催する子供のキャンプに参加させたりして、両親不在の毎日の予定を埋めているらしい。そして両親と一緒に行く家族旅行もその計画に加わるという。なんと忙しい、予定いっぱいの毎日だろうか?

実際、娘の周囲の共働き夫婦の子供たちは、どのように夏休みを過ごしているのだろうか?
「みんな同じようなもんなんよ。働いている人は苦労しているわ。
それに『一年生の壁 4年生の壁』という問題もあるし…」
娘は答えた。
「何それ?『1年生の壁、4年の壁』って?」
再び聞いてみた。

『1年生の壁』とは、
子供が小学校一年生になった時、保育園に通っていた時に比べ、帰宅時間が早くなる。子供が学童保育から帰宅し、母親が仕事から戻るまでの時間を子供1人で留守番させることが嫌(心配・不安)で、母親の方が仕事をやめてしまうことだという。
また「4年生の壁』とは、
1年生から3年生まではなんとかクリアしたが、4年生からは規則で学童保育に通えなくなる。母親が仕事から帰宅するまでの"子供の1人で過ごす時間"はそれまでと違いさらに多くなり、母親にとってはさらに不安や心配が大きくなる。それで仕事をやめてしまう人がいることだという。

母親が帰宅するまでの間 子供の面倒をみてくれる両親や知り合いの人がいれば問題はないが、そのような恵まれた人ばかりではないから、このような言葉が生まれてくるのだろう。
夏休みともなれば、さらに子供が1人で過ごさねばならない時間が多くなる。
それ故子供の意思に関わらず、子供の塾漬け、習ごと漬けの時間が多くなるのだろう。

現在、政府は「働き方改革」というスローガンのもとに、さらなる女性の社会への進出を推奨しようとしている。しかし、娘の話を聞いた限りにおいて、現実は、働く母親が子供を安心して預けられる保育所の不足、子供が小学生、特に高学年になった時、自分が帰宅するまでの間安心して子供を預ける場所がない、塾や習い事で子供が1人になる時間をできる限り埋める、両親に頼まざるを得ないという様々な問題があまりにも多すぎるように思った。
もう少し若い共働きの人たちが安心して働けるための周辺整備を整えて欲しいと思う。

すやすやと安心して眠っているエイちゃんの寝顔を見ながらそう思ったのだった。



by PochiPochi-2-s | 2017-07-25 23:33 | 思い | Trackback | Comments(6)

生きている喜びを感じられるように生活したい


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