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クルーズ船はブラチスラバを出港し、次の寄港地はウィーンだった。
この町には今までに2度訪れている。1982年夏8月と、29年後の夏、2011年8月に。
1度目は個人旅行(家族旅行)で、2度目はベルリンから始まりブダペストまでの
中欧グループツアーに参加し、ブラチスラバへの途中で立ち寄ったのだった。

沢木耕太郎の「旅の窓」の中に、
「旅をなぞってはいけない。それがこの何十年かの旅で得た教訓のひとつである。
しかし、人にはわかっていながらしてしまうということがある」という文章がある。
グループツアーということもあり、旅行の最初から十分にわかっていたことだが、
2度目のウィーンには まさにこの言葉が当てはまるように思われた。
最初のウィーンへの旅をいい思い出として 心の中に止めておくほうがよかったかも
しれなかった。



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1982年8月2日、私たち家族4人は、シェーン・ブルン宮殿にいた。7月20日に日本を出発してから14日目だった。小さな子ども2人を連れての西ヨーロッパへの旅。この宮殿でまる1日遊んで過ごした。言葉が全く理解できない2人は私たちのサングラスをかけふざけあっては笑いころげていた。外国人観光客も2人を見て大笑いしていた。

「美しい泉」という意味のシェーン・ブルン。とてつもなく広く、見るもの、見たいものはいっぱい。しかも、珍しい、目を奪われるようなものばかり。建物の内も外も
。部屋数1400室。宮殿の中には8才のモーツァルトが織り込まれたタペストリー、金ピカの装飾品等。外には美しいフランス式幾何学庭園、動物園、大温室、レストラン、小高い丘に建つ東屋等。ハプスブルグ家の夏の離宮であった。
「会議は踊る。されど会議は進まず」
この言葉で有名なウィーン会議が行われた場所でもある。

29年後、2011年8月18日、主人と私は再びこの美しい宮殿を訪れた。グループツアーで。懐かしく、心密かに“再訪”を楽しみにしていた。しかし、29年という年月を経た後の再訪は驚くことばかり… 観光客の多さ、庭園の変わりよう (芝生と花が少なくなり砂利道が増えた)、ハイシーズン中にもかかわらずあちこちで行われている修復工事。庭園に出ることができたのは、現地ガイドさんが入場券を買いに行ったほんの10分程度。その後30分ほどの案内でぐるっと宮殿内を見学。「なんともまぁ…」 29年前の、あの“のんびりした、楽しかった一日”が無性に懐かしかった。



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オペラ座からケルントナー大通りを北の方へ向かうと、聖シュテファン大聖堂に出る。多彩な釉瓦が美しい大屋根。懐かしい! でもやはり、大通りも大聖堂も大勢の観光客でごった返し、かつ 修復中。子供たちが大喜びで何度もコインを入れにいったあの時のストリート・インディオの人達の演奏もされていなかった。それでも、私の心の中に
は“コンドルは飛んでゆく”(エル・コンドル・パッソ)のメロディが流れていた。せわしなく追い立てられるようなウィーン観光だった。
ただ、いい面もあった。懐かしさがこみ上げ、時の流れと共にいつの間にか忘れ去られてしまった一瞬一瞬が一気に蘇り、輝き出す。楽しく、嬉しく、明るく、賑やかだった一瞬。オペラ座、市庁舎、ヴェルヴェデーレ、ブリューゲルの絵、自然史博物館、国立美術館、西駅、南駅、プラーター遊園地、大観覧車……
“Time flies like an arrow”(光陰矢の如し)
29年間は「アッ!」と言う間だった。
ウィーンに“乾杯!”


「義務教育制度、累進課税制度、裁判制度。この3つの制度の導入と確立。18世紀、オーストリアの女帝、マリア・テレジアが実行した内政の改革。特に“義務教育制度”によって、国が大いに発展し繁栄した」
ウィーンでの現地ガイドさんの説明。
昨年京都市美術館で観た『フェルメール展』の解説にも同じような内容が書かれていた。「フェルメールが活躍した17世紀、オランダでは“義務教育制度”が導入され、国民に誰もが、男女を問わず子供に至るまで文字の読み書きができるようになった。国がとても繁栄し豊かになった」と。学校に通うことによって読み書きを覚える。さらに高いレベルの知識を追求する。その結果、国民の教育レベルが上がり国の発展に結びつく。日本では、江戸中期、享保・8代将軍吉宗の治世。「寺子屋」は存在したが、「義務教育の概念」はなかった。オーストリアやオランダは、当時の日本からは想像すらできない、はるかに発展した近代国家であったに違いない。

正月元旦、ウイーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートを楽しみにしている。シェーン・ブルン宮殿の大広間、華やかな舞踏会、スペイン乗馬学校の模範演技等の画面が、番組の途中に差し挟まれる。18世紀、マリア・テレジアの時代にはなんと華やかであったのだろうか。新年早々毎年同じ感慨にひたる。

「第二次世界大戦後、厳しい国際政治の情勢の中で選んだ「永世中立」と言う立場上、世界中のスパイがこの街に潜入し、暗躍する。オーストリア当局の監視体制は非常に厳しく、空港・駅等の公共の場はもちろん、場末のカフェ・ビアホールに至るまで徹底してコントロールされている」
春江一也「ウィーンの冬」の主たるテーマである。
“華麗なる街”ウィーンが、この華やかな光の部分と共に合わせ持つ、暗い影の部分である。29年前、バーゼル(スイス)からの夜行列車で Wien West Bahnhof(西駅)に降り立ち、嬉しさと興奮で大はしゃぎしていた私たち親子4人。今から思えば、「なんと…。知らぬが仏とはこのことか!」

あの時から29年。
“教育”の大切さを改めて教えられ、身に染みた一日であった。



by PochiPochi-2-s | 2016-06-17 23:01 | 旅行 | Trackback | Comments(2)
昨夜、先週に続き、「高橋克典が巡るドナウ川歴史探訪クルーズ 女帝マリア・テレジアの絢爛豪華な宮殿秘話」の2回目が放送された。
今回 クルーズ船はブダペスト(ハンガリー)を出港し、途中ブラチスラバ(スロバキア)に寄港、その後 ウイーン(オーストリア)に入港するまでの放送であった。

クルーズ船がドナウ河を遡り、ブラチスラバの景色がTVの画面に映し出された時、
「ああ、ブラチスラバだ… 」と懐かしく、この街を思い出し、
同時に、どうしてもこの街を訪れたかった理由も久しぶりに思い出したのだった。


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《ドナウ河に架かる橋》
川の手前がブラチスラバ(スロバキア)、対岸がオーストリア



「射殺されたの……ハインツ」 カテリーナが亮介に言った言葉。
小説「プラハの春」(春江一也・著)の一場面。
女主人公カテリーナ・グレーぺの弟・ハインツがブラチスラバ近郊のチェコスロバキア・オーストリア国境でチェコ側国境警備隊に射殺された。国境を流れるドナウ河を泳いでオーストリア側に不法越境をしようと試みたとのこと。無事に泳ぎきることができれば、対岸はオーストリアの領土。川の中ほど、オーストリアまで30mくらいの所で発見され、自動小銃を連射された。彼は潜水し、必死で泳ぐ。誰もが撃たれてしまったかと思っていた時、オーストリア側岸近くで再浮上。あと15m程だった。再び激しく連射され、ついに頭部に被弾。あと10mだった。援助しようと待ち構えていたオーストリア側警備隊の目前で射殺されてしまった。

この場面を読んだ時、涙がこみ上げ、無性に悲しくてしかたがなかった。
“60mの川幅”。
泳ぎの達者な人なら、厳しい状況など何もなければ、いとも簡単に泳ぎきれる距離。
この時以来、
「もし、いつかチャンスがあれば、ブラチスラバに行ってみたい。
この目で実際の川幅を見、実感したい」
と思い続けてきた。

2011年8月半ば、私はこの橋をウイーンからのバスに乗って渡っていた。

「短い!」そう思った。

「自由になりたい。自由な世界で 思う存分思いのままに旅をし、絵を描きたい」と
願ったハインツの気持ちを想った。
「どんなにか悔しかったことだろう。わずかあと『10m』を、永遠に続く、果てしない距離に感じながら亡くなったことだろう」と。

この話は実際に起こったことではなく、あくまでも小説の中の話である。
当時プラハにある日本大使館に勤めていた経験をもとにして、
作者はこの小説を書いたのだった。
しかし、現実の世界でも、東西冷戦の最中、旧東側の国から旧西側の国への逃亡は
後を絶たなかった。ベルリンの壁を越え、西側に行きたくて射殺された人の数の多さ
を考えても、この小説の中のハインツのような若者が数多くいたと考えられる。

小説「プラハの春」を読めば読むほど、大国の圧政、横暴、そしてその下で苦しむ
抑圧された国の人々の生活がよくわかるようになった。
何故「プラハの春」が起こったのかということも。

この年の年末12月30日に、
ロシア人の友人・サーシャのご主人が自殺をするという悲劇があった。
彼もまた旧ソ連時代を画家として生きた人であった。
「ソ連からロシアにかわっても、何も変わらない。何も変えることができない」
という言葉を残して彼は亡くなった。享年63才。ソ連崩壊から20年後だった。
しかも、この日は彼女の誕生日だった。

戦後生まれの、自由な世界に育った私には、その“辛さ”や“無念”を想像することだけでしか理解できないが、『今、この自由な世界に在ることの幸せ』を身に染みて感じる。


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『プレスブルグーこの自由なる王都・戴冠式の府は、自然、芸術、とりわけ歴代君主の熱情に恵まれ、かくも多様な富がもたらされた。よってプレスブルグこそは、他の特徴がある諸都市に劣らず詳細に語るに値する町である』
(ヨハン・マチアス・コラビンスキー・1781年)

* 1919年、チェコスロバキア共和国の建国を機に、プレスブルグからブラチスラバに改称される。プレスブルグ(独語)・ポジョニ(ハンガリー語)*

ブラチスラバはウイーンから 僅か60km。
すでに第一次世界大戦前には、この2つの都市は電車で結ばれおり、
かつてオーストリア・ハンガリー帝国時代に「ウイーン郊外」と呼ばれていた町、
想像を遥かに超える豊かな歴史、伝統、音楽を誇り、過去への郷愁を誘う町だった。

人口43万人。こぢんまりとした、美しい、落ち着いた雰囲気のある町で、石畳が美しかった。6つもの大学があり、学生の数は6万人を超える。住民の教育水準も高く、
インフラも充実。外国からの経済投資も多い。旧市街には宮殿、教会、堅牢な城等が数多く残っている。

丘の上にそびえるブラチスラバ城。町のシンボルで、そのシルエットから「逆さテーブル」と呼ばれている。数多くの王族・貴族が住み、町は活気付き繁栄した。栄枯盛衰。国の衰退と共に19C初頭の大火で灰燼に帰し、のちの再建された。
城壁から眺めるドナウ河は川幅は狭いが、ゆったりと流れ、のんびりとした風景のなか、川を渡ってくる風は心地よかった。ほっと、心豊かになる至福のひと時だった。

旧市街地の中心部、中央広場に建つ旧市庁舎。赤い屋根が印象的。
その横の時計塔には今も砲弾が残っており、1809年のナポレオン軍による砲撃の痕
跡である。塔からは旧市街や城を一望でき、町の美しさを堪能できる。

またこの城の麓には聖マルチン教会があり、ここでは歴代のハンガリー国王の戴冠式が19回も行われた。マリア・テレジアの戴冠式もこの教会で行われた。
またフランツ・リストがここで、自作の「戴冠ミサ曲」を指揮したと言われている。

ただただ「ドナウ河の川幅を実感したい」というだけでこの町を訪れたのだったが、
“神の思し召し”によって“思わぬ喜び・幸せ”を与えてもらった。

『ブラチスラバ』
この町の名前は、ドナウ川の川幅と共に、おそらく生きている限り私の心の中に
残り、私に何かを語り続けることだろう。

BSの番組の中での高橋克典のナレーションが思わず私をブラチスラバに連れて行ったのだった。



by PochiPochi-2-s | 2016-06-16 22:53 | 旅行 | Trackback | Comments(2)
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クルーズ船
(旅行会社のサイトから拝借)


昨夜 偶然 BS・TBSのクルーズ「極上のクルーズ紀行」を見た。
当番組ナレーターの高橋克典 がドナウ川クルーズをするという特別番組。
「高橋克典が巡るドナウ川歴史探訪クルーズ 女帝マリア・テレジアの絢爛豪華な
宮殿秘話」


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(同上)



ハンガリーのブダペストを出発し、ウィーン、メルク、パッサウ、レーゲンスブルグ/ケルン、マインツ/ニュールンベルグ、ニュールンベルグと廻る。

昨日の番組は、主にクルーズ船への乗船、船の説明とブダペストの街の案内だった。



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鎖橋 (ゲレルトの丘から)



TV画面にドナウ川に架かる鎖橋の景色が映された途端、
記憶が一気に2011年8月のブダペストに飛んだ。

私には、是非ともブダペストの街を訪れ、この目で見、そこに流れる風を感じ, どのような街なのか知りたい理由があった。

昭和60年(1985年)6月、宮本輝『ドナウの旅人』が朝日新聞朝刊に「新聞小説」と
して連載され始めた。長男と長女が小学校へ行き、1歳半の次男が一人遊びをしている朝のいっとき、この新聞小説を夢中になって読んだ。
ドナウ川に沿って西ドイツのドナウエッシンゲン(ドナウの源流のある街・ここから
ドナウ河が始まる)からルーマニアの黒海沿岸の小さな漁村までの3,000kmを旅する母と年下の愛人、娘とドイツ人の恋人の2組の男女の心境の変化と成長を、旅の途中で出会う異国の人々、風景とともに描かれている。

『ドナウの旅人』
この題名が私を惹きつけたのだった。その3年前の1982年夏、私たち家族4人はウィーンに宿泊していた。観光目的のみなら厳格な入国審査を課せられずに、“一時滞在ビザ”で“西側”のウィーンから船で“東側”のブダペストまでは行け、しかも そのビザはウィーンで手に入れることができたのだった。
行ってみたかった。
しかし、6歳半と5歳の小さな子ども連れでは、何が起こるかわからないので諦めるしかなかったのだった。プラーターの大観覧車から眼下に見えるウィーンの街のはるか遠くを眺め、まだ見ぬ街 ブダペストに思いを馳せた。「どのような街だろうか…」
その時の複雑な気持ちは、いつまでも記憶の中に残っていた。
その時からちょうど30年後、ブダペストの街を訪れる機会が巡ってきたのだった。

この旅行時、中学校の恩師A先生から頼まれたことがあった。
「あなたのスケッチ画付きで旅行記を書いて欲しい。孫がブダペストで日本語教師と
して働いているが、私はもう高齢でよう行かへんから」と。
印象深かったところの風景をハガキの裏にスケッチし、表にはその画に関する文章を
書いたのだった。


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《宮本輝『ドナウの旅人』より》
「ブダとペストは元は別々の場所だったんだよな。ブダペストという一つに街になったのは1870年代だ。それまではドナウ河を挟んで二つの独立した街だった。ブダはハンガリーの伝統を守る政治の街で、ペストはドイツ人やユダヤ人が行き来する経済の街さ。ペストつまりペシュトはドイツ語から来た名前だけど綴はドイツ語にも由来してないし、ハンガリー語でも意味不明だ。どうしてブダっていう名前がついたのか、ハンガリー人にもわからないそうだよ」
「美しい街だよ。でも、その美しい街のあちこちには砲弾や銃弾の跡がそのまま残っている。1956年ソ連軍が入ってきた時の名残だ。子どもまでがソ連軍の戦車に石を投げて戦ったんだ。何人の子どもがその戦車に轢かれて死んだと思う?……ウイーンよりはるかに美しい街だ」

『ドナウの旅人』を読んで以来、ずーっと訪れたいと願っていた。
それほどこの小説は強烈な印象を私に与えたのだった。



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建国1,000年を記念して建てられた。
以前、ここには魚市場があり、漁師たちが街を守る城塞があった場所。
眼下にには川幅も広く水量たっぷりのドナウ川が悠然と流れている。
1,000年も続いた王国の悠久の時の流れを感じさせる場所。
川を渡って吹いてくる風は本当に心地よい。
鎖橋を挟んで対岸には国会議事堂が見える。


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現地ガイド、セーゲイさんの話は印象的だった。
ハンガリーは常に“自由”のために闘ってきた国であるが、ソ連崩壊後“自由の国”アメリカの圏内に入り喜んだのも束の間、20年後の現在、『支配する』という点ではソ連もアメリカも全く変わりなく、支配される側にとってはどっちもどっちという感じだという。

また、女性ガイドのリタさんの話も興味深かった。
彼女は 現在42歳だが、ソ連崩壊時は20歳だった。
彼女の人生の前半分は共産主義の下で、後半分は資本主義の下でであった。
(東ベルリンの現地ガイドのドイツ人女性も同じだった)
個人的には、子ども時代、共産主義だからといって何の不自由も感じなかった。
しかし 老いてから資本主義に変わった人たちには、現在の体制は非常に“しんどくて
きつい”らしい。かつて“自由はなかった”が仕事を与えられ、失業がなく、病院学校等
すべてが保障されていた。そんな人たちにとってすべて自分の責任んで仕事を見つけ、生活を安定させ、老後を考えねばならないということは想像以上に大変なことである。


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かつてウイーンのオペラ座の見学ツアーに参加し、オペラ座の中を隈なく見学した
経験があった。それゆえ、今回もオペラ座は是非見学したい場所であった。
ガイドは若い女性で、非常に美しい英語を話した。
ウィーンのオペラ座に比べるとワンサイズ小さめのこぢんまりとした建物だが、
内装はとても美しく、豪華でエレガントだった。
ウィーンに勝るとも劣らないものだった。
特に外観がすばらしい。

ここでの女性ガイドの私たち観光客にした質問がいまだに記憶の中にある。
2012年1月1日にリスト生誕200年を記念して国際空港名が「フェリヘジ」から
「リスト・フェレンツに変更されるが賛成か反対かという質問だった。
ハンガリーにとっては外国人の私たち観光客にする質問ではないと思ったし、
何故私たち外国人の賛同を得なければならないのかが分からなかったが、
彼女は真剣だった。
ハンガリーにとっては偉大な音楽家であっても、10歳から生まれた国ハンガリーを離れ生活し、ドイツ語を話しハンガリー語は全く話せなかったリスト。
街中に “モスクワ広場”という名称が残る一方、国際空港の名称を“リスト・フェレンツ空港”に改称。ハンガリーという国の歴史の流れを垣間見たようだった。


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西駅


「寂しいね」
あちこちに水たまりができ、屋根から雨が漏っているホームを歩きながら、
麻子はシギィの手を握った。
「駅ってみんなそうだよ」

ー 宮本輝『ドナウの旅人』(ブダペスト東駅の描写)より ー

昔から駅が大好きである。特に名画でよく登場する大屋根で覆われ、国際列車が発着するヨーロッパの駅。未来へ、まだ見ぬ場所、異国へと私を連れていってくれるような気になる。その一方、そこは“人生の縮図”のようでもある。さまざまな人間の其々の人生模様が見られる。“出会いと別れ”“喜びと悲しみ”“希望に満ちた旅立ちと失意の帰郷”等。

現在ハンガリーは自由圏の国。『ドナウの旅人』の中の描写とは全く異なり、“暗く寂しい”ことはなかった。ただ、夜ともなれば、まだまだ照明は暗く、人も極端に少なかった。しかし、昼間に西駅は国際列車の発着の度に、さまざまな国籍の、さまざまな言葉を話す人たちがあふれ出るように現れては消えてゆく。雑然とした、活気のある雰囲気であった。

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チェコ、スロヴァキア、ハンガリーと、どの国でも野菜や果物が実に豊富だった。
色も鮮やかで美味しい。赤や黄色のパプリカ。緑色のシシトウガラシやピーマン。優に日本の2倍はあると思えるくらいの大きさ。ズッキーニ。青瓜、キュウリ、シロウリ、カボチャ、なすび、トマト、ジャガイモ、トウモロコシ、ブドウ、オレンジ、バナナ、レモン等々。ブダペストに到着した夜、南駅に“探検”に出かけた。
プラットホーム横の金網から外に出ると、新鮮な野菜や果物を売る屋台のような店が
あり、店主は若い青年だった。値段はびっくりするほど安く、スイカは1玉120円ぐらいで、日本ではとても考えられない値段だった。


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「愛した人の瞳は黒かった」ー 宮本輝 『ドナウの旅人』より ー

ドナウ河にかかる鎖橋袂にあるレストランで
長瀬(主人公の一人、麻子の母の愛人)は ジプシーの楽団に音楽をリクエストする。
「10曲全部をジプシー音楽で」と。
それは最後の曲の歌詞のフレーズだった。

ブダペスト最後の夜のフォークロアディナーショー。
民族料理、楽団員たちの奏でる音楽、それに合わせて踊るダンス。
若い綺麗な踊り子さんたち。
国民の大半はマジャール。アジア系騎馬民族。
瞳はみんな黒かった。
それだけに深く親しみを感じたのだった。

久しぶりに見たスケッチ画。
一場面一場面が、文章とともに懐かしく思い出された。
春江一也『プラハの春』『ベルリンの秋』『ウィーンの冬』、
宮本輝『ドナウの旅人』を何度も読むにつれ、心はいつしかプラハへ、ベルリンへ、
ブダペストへ、そしてもう一度ウィーンへと飛んで行っていた。2011年夏の中欧への旅行は思い出深く、考えさせられることの多い旅行だった。其々の絵に対する文章
はもっと長いものだが、ブログアップのため今回はかなり省略し、文章も短く書き直
したところもある。




by PochiPochi-2-s | 2016-06-09 22:36 | 旅行 | Trackback | Comments(10)
約20年ほど前 この家に来た頃、
小さな庭があり、当然のことながら当時流行っていたガーデニングに興味を持った。
毎日時間があれば 本屋さんに通い、ガーデニングの雑誌を読みあさった。
その中の一冊がこの雑誌「BISES」(ビズ) -(現在の雑誌名)



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今もそうだが、この種の雑誌は、写真が多く見ていて飽きることがない。
それでも何年かすると、同じような企画、同じような写真になることが多く、
最近ではほとんど買うこともなく本屋さんで立ち読みするぐらいだった。

「今年最後の冬号はどんなだろうか?」
2〜3日前、時間があったので、たまたま本屋さんに立寄ってみた。
なんと表紙の字に目が釘付けになってしまった。
「イギリスの作家たちの庭」特集。
しかも、アガサ・クリスティやウイリアム・シェークスピアの庭。
つい、買ってしまった…

どちらにも行ったことはあるが、印象深いのはアガサクリスティの庭の方。
雨のなか なんとか彼女の別荘のグリーンウエイハウスに辿り着いたが、雨はますます激しくなり、帰り乗る予定だった最終電車にも乗り遅れてしまい、庭どころではなく
なった経緯がある。

もし雨でなかったならば…
私には“幻の庭”になってしまったアガサ・クリスティーの庭。

いつかもう一度この場所だけは絶対に来たいと思ったその庭の写真が詳しく載って
いる。


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家に帰り、楽しみながらゆっくり読むうちに、あの雨のなかの大冒険を思い出した。

2年前の6月〜7月にかけて2週間、当時カーディフ大学の中にある中国文化センター
で中国語と中国文化を教えていた友人・リさんを訪ねてカーディフへ。5日間カーディフに滞在した後、主な荷物を彼女に預け、1人でトーキーや湖水地方、ハワース
などに電車の旅をした。


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ボートツアーの航路


トーキーに滞在した時、ぜひ行ってみたかったのがアガサクリスティの別荘・グリーンウエイハウスだった。トーキーのプリンセス・ピアーからダートマスまで船で行くツアーがあり、日本出発前にすでにボートツアーの予約は取っていた。
あとは当日のお天気次第だった。

トーキーについた日は快晴で波も穏やか。翌日の準備のために桟橋まで散歩を兼ねて
下見にいった。海風が心地よく潮のにおいがなんとも言えず、私を最高の気分にさせ
てくれた。たくさんの人たちが海岸で日光浴をしたり、泳いだりして遊んでいた。
「明日も晴れてくれたらなぁ…」


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ボートツアー出発の場所
プリンセス・ピアー


朝起きると、霧のような小雨。
止むことを期待して、少し早めにB&Bを出発、プリンセス・ピアーへと急いだ。
船が出るかどうか心配しながら桟橋に腰掛けて待っていると、
ボートツアーの参加者が三三五五、あちこちから集まってきた。

「ハイ、1人? 私たちの仲間にならない?」
その中の1人が声をかけてくれ、仲間に入れてもらった。
同じホテルに宿泊している人たちらしく、イギリス人のおばちゃん、スペイン人夫婦、カナダ人、休暇のイギリス人男性等おもしろいグループで、みんなチェスの話に夢
中になっていた。イギリスではチェスができるかどうかがとても大事なことなんだ
と言って。

みんなが心配するなか、いちおうボートは出発。
ほっとしたのもつかの間、
「今日のこのツアーは次の停泊地・ブリクシャムで中止にする。ダートマスに行くには外洋にでなければならないから、本日の天候では波が高く危険である」
といきなり放送があり、ブリクシャムで降ろされてしまった。

その後の顛末は、灰色の脳細胞・エルキュール・ポアロにすでに書いたが、
親切なイギリス人夫婦のおかげで、なんとかグリーンウエイハウスに辿り着くことが
でき、心ゆくまで別荘の建物の中を見学できた。しかし、雨はますます激しくなり
土砂降りに。アガサクリスティの庭は、心残りではあるが、諦めざるをえなかった。
最終電車にも乗り遅れ困っていた時、また天の助け(?)があり運良く親切なバスの運転手さんがボランティアで、トーキーまでバスを出してくれたのだった。


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親切なイギリス人夫婦とバスの運転手



地獄に仏とはこのことかと、飛び上がらんばかりに嬉しかった。
夕方なんとか無事にトーキーのプリンセスピアーまでバスで帰ってくることができ、
3人ともほっとして別れた。

「ああ、大冒険だったなぁ…」


久しぶりに思い出し、懐かしさで胸がいっぱいになった。



by PochiPochi-2-s | 2015-11-21 22:43 | 旅行 | Trackback | Comments(14)
先日放送された「世界ふれあい街歩き・カンタベリー」の映像が、
私にロシア人の友人・サーシャとの偶然の出会いを思い出させた。

2009年10月半ば、娘のような若い友人ラヴィニアを訪ねてロンドンに旅立った。

「娘が日本でお世話になったお礼にぜひ私の家に宿泊してください。
狭いところですが、どうぞ自分の家にいるようにくつろいでくださいね」

彼女のお母さんのたっての申し出で 10日余 彼女の家に宿泊させてもらった。
イングリッシュホスピタリティーの凄さに驚いた瞬間だった。

帰国前、ラヴィニアは日本の公立高校でALT(英語助手)として働いており、
私の家によく遊びにきていた。
私の庭での彼女との“ティータイムとチャット(お喋り)”は極上の楽しい時間だった。


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カンタベリー大聖堂


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ロンドン滞在中に訪れたい場所がたくさんあった。
カンタベリー大聖堂はその中の一つ。
この旅行の前、Ken Follett のThe Pillars of the Earth,(邦訳・大聖堂)と
World Without Endを読んでいたので、その中に出てくる『カンタベリー大聖堂』
ソールズベリーには是非とも行ってみたいと思っていた。
日帰りで行くことができるのはカンタベリー大聖堂であった。

カンタベリーはイギリスの南東部に位置し 初めてキリスト教が伝わった場所であり、
その中心となるカンタベリー大聖堂は荘厳なゴシック建築の傑作である。現在はイギ
リス国教会の総本山。礼拝堂は12世紀の大司教トマス・ベケットを祀っており、
周りのステンドグラスにはベケットの物語が描かれている。ベケットは教会の権限を巡って
時の国王と対立し、大聖堂の中で暗殺されてしまった。死後、ローマ教皇から聖人
とされると、ベケットは奇跡を起こすようになったと伝えられている。
重病人やけが人のもとに現れて次々と治したという。
ベケットの奇跡はすぐに大評判となり、カンタベリーには多くの巡礼者がもうでるように
なった。

一方、ソールズベリーは この小説の舞台であり、イギリスで一番高い塔を持つ教会。
教会の図書館には『マグナカルタ』が保管されている。

カンタベリーと言えば、すぐに思い出すのはチョーサーの『カンタベリー物語』であるが、
私にはトマス・ベケットの話の方が興味があったので、トマス・ベケットの物語を描いて
いるステンドグラスと彼が暗殺された大聖堂の中をぜひとも見たかった。



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ステンドグラス



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祭壇



ビクトリア駅近くのバスターミナルを出発したバスは、途中、リーズ城に寄った後、
カンタべリーに着いた。乗客の大半がまずはランチとレストランに急いだが、私は
ラヴィニアが早起きして私のために作ってくれた食べきれないほどのランチを持って
いたのと、ゆっくりとカンタベリー大聖堂を見学したかったので、大聖堂の方へと
急いだ。

サーシャに会ったのはその時だった。

彼女もランチより大聖堂の方に興味があった。
「お昼用にチョコレートを持ってきているから」と、一緒に見学をすることにした。
幸い彼女は英語を話すことができた。英語は、お互い第二外国語。そのためか文法
どうりのきれいな英語で話すので、理解しやすかった。

ロシアじゃなく『ソ連』の時代、一般の人達には外国に行くことは夢の夢であった。
英語をはじめ外国語を勉強することが禁じられていたという。
でも、彼女の高校の先生は、
「いつか海外に行くことができるような時が来たら、ぜひイギリスに行きなさい。
そのために、今、一生懸命勉強しなさい」
と、イギリスの歴史と主だった訪れるべき場所を詳しく教えてくれたという。

今、ソ連からロシアに変わり、自由に外国に行くこともでき、習いたい言葉を習える
時代になった。

「こんないい時代はない。私の娘は日本語を習っているのよ。
村上春樹が大好きなの。あなたも彼の小説が好きですか?」

彼女は私に尋ねた。

心ゆくまで見学した後、聖堂横にある公園のベンチで私のランチを二人で一緒に
食べ、帰りのバスの時間までいろんなことを話し合った。


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モスクワ・クレムリン
(JTBウェブサイトより)



初めて聞く珍しいロシアの人たちの日常生活の様子や彼女の住むモスクワの街の様子、
彼女の仕事(テレビ局勤務)、息子と娘の話、ご主人(画家)の話など、私にとっては興味津々の話ばかりだったし、サーシャも日本のことが聞きたくてしようがなかったらしい。
お互いメールのアドレス交換をし、写真を撮りあった。

その時以来、今もなおことあるごとにメールのやり取りが続いている。

いつか日本に遊びに行きたいというサーシャ。
いつかモスクワに行ってみたいと思う私。

お互いにその夢がかなう日がくることを願っている。

カンタベリーは、この時以来、私にとっては 忘れられない、思い出深い街になった。



by PochiPochi-2-s | 2015-10-06 22:55 | 旅行 | Trackback | Comments(2)
昨夜、何気なく テレビをつけると、BS4地球絶景紀行が放送されていた。

登頂がなかなか難しいので“魔の山”と名付けられたアイガー北壁。
グリンデルワルトの村から。ヨーロッパ最長のゴンドラで行くメンリッヒェン展望台
から。そして、最後にはヘリコピターで空から白銀の大パノラマ。


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クライネシャイディックからのアイガー北壁
(ウィキペデイアから拝借)


「わぁ〜、懐かしいっ! あれから もう30年余。
時間の流れは、ほんとうに速いなぁ…」

若い時は、時には思ってもみない大胆な行動をするものだ。
この時もそうだった。
ありったけのお金を引き出し、全額握りしめて大胆にも
家族でヨーロッパへ1ヶ月の旅行に出かけたのだった。




今から30年余前、家族で初めて行った(西)ヨーロッパ旅行。
ユーレイルパスを使った鉄道旅行だった。
スイスもぜひ訪れたい場所の一つで、レマン湖畔の街・モントレーでの滞在の後、
次はアイガー北壁を見ながらその山麓をハイキングしたいと、グリンデルワルト
まで行った。

駅前のインフォメーションセンターでホテル・ベラリーを紹介され、宿泊する。


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《ホテル・ベラリー》


家族経営の、ほんとうに小さなホテルだったが、オーナーの老夫婦も、若夫婦(夫・
日本人)もみんな親切で、こじんまりした、快適な、心地よいホテルだった。
親切にもおじいさんは、駅まで私たちを軽トラで迎えにきてくれた。
何よりも一番良かったのは、
ホテルの庭から 毎日 アイガー北壁を眺めることができることだった。


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《当時のホテルオーナー夫妻の家族》
(『グリンデルワルト便り』より)



ついた当日の午後からは小雨。
早速、雨具を着て散歩に出かけた。


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小雨の降るグリンデルワルトの村で


「さぁ明日は、ユングフラウヨッホまで登山電車で登るぞ!」
誰もがそう思って眠りについた。
翌朝 娘が調子悪く、疲れが出たのか少々熱があった。
まずは、山の大好きな私と息子が、途中のクライネシャイディックまで偵察に行き、
主人と娘はホテルで休憩していた。
その間、ホテルオーナーの老婦人に親切にもてなして頂き大喜びだったとか。
夜その話を主人から聞き、どんなに嬉しかったことか。
海外で一番嬉しいと思うのは、他の人のさりげない、しかし心のこもった親切。
この時もそうだった。彼女の親切な心が嬉しかった。

翌日、娘も元気になり、
今度は 家族みんなで もう一度登山電車に乗り、ユングフラウヨッホまで行き、
帰りはクライネシャイディックからのハイキングを楽しんだのだった。

「こんな高い運賃の登山電車に二回も乗る人がいる。誰かなぁ?」
「うん??? へっへっへ…」


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登山電車


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登山電車のレール・ギア

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ユングフラウヨッホ駅

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登山駅の下にある氷の宮殿

子供たちは大喜びだった
スケートの格好をしてふざける長男

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ユングフラウヨッホの展望台で

メンヒをバックに長男と私
若っ!


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クライネシャイデック駅からのユングフラウ



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アイガー北壁とクライネシャイディック駅

ここから下の村に向かってハイキングを開始


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わぁ〜、気持ちい〜いっ!



まだまだ日本人旅行者の少なかった頃。
ハイキングの途中で若い日本人夫婦に出会い声をかけられた。
「ご家族で旅行ですか? 旅行が終われば日本に帰れるのですねぇ。
うらやましいわ。私たちは駐在員なので、なかなか日本に帰れないのですよ。
お嬢ちゃんも坊ちゃんも気をつけて旅行してね。楽しんでくださいね」

「楽しかったなぁ〜。もう30年余経ったなんて…
そりゃそうやわ。二人とも もう40才近いもんなぁ」

久しぶりに楽しかった昔の旅行を思い出した瞬間(とき)だった。



by PochiPochi-2-s | 2015-09-12 22:14 | 旅行 | Trackback(1) | Comments(4)

輝いていた湖水地方

お盆も過ぎると朝夕めっきり涼しくなってきたように感じる。
朝の水やりがずいぶん楽になった。

昨日、庭のホトトギスが咲いた。
やはり季節は少しずつでも秋に向かっているように思われる。


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✳︎


BS日4「トラべリックスⅢ〜世界体感旅行〜」は「イギリスの湖水地方」だった。
2年前の湖水地方への旅行を思い出し懐かしかった。


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湖水地方略図


I wonder lonely as a cloud
That float on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host, of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the trees,
Fluttering and dancing in the breeze.
( 「I wonder lonely as a cloud」)


谷間と小山のうえに 高く流れる
白雲のように わたしは ただひとり さ迷い歩いた
すると突然 金色にかがやく
黄水仙の花の群れを わたしは見た。
湖のわき、木々のした、その風に
ゆらゆら躍っている 花の群れを
(「黄水仙」・訳)


大学時代、この詩に出会い、そのとき以来 ずーっと 思い続けてきた。
「いつか湖水地方に行ってみたい。この黄水仙を見てみたい。
ワーズワースがこの黄水仙の群れを見つけたアルズウォーターに行ってみたい。
その美しい湖をこの目で見、その場の空気を感じたい」



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アルズウォーター
(Webサイトから拝借しました)


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アルズウォーター
当時75才運転手兼ガイドのおじいさん



2年前、5月初め、友人のリさんから 突然 メールがきた。
「この年末で中国文化センターでの仕事が終わり中国に帰る予定です。
その前にあなたにぜひ会ってゆっくりお喋りがしたい。
この夏の旅行計画がまだ決まっていないのなら、カーディフに来ませんか?」

チャンスは巡ってきた。

ずいぶん前 廈門(アモイ)で会って以来、長い間 彼女に会っていなかった。
彼女の誘いは魅力的で、私の心に響いた。
「もう一度イギリスに行ける!」

前回は、ロンドンと日帰りのできる、カンタベリー、コッツウォルド、
ストラッドフォード・アポン・エイボン、オックスフォードへ行ったが、
宿泊が伴う湖水地方は諦めたのだった。
早速 主人に了解を取り付け、OKの返事を出した。

連日 夜B&Bに帰るまで、彼女と 十分 心おきなく喋り尽くし楽しい時間を過ごした。
その後主な荷物は彼女に預け 足取りも軽く、ブリットレイルパスを使って一人で
電車旅行に出かけた。


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ウィンダミアのB&B


宿はウィンダミアのB&B。
ジョージアンスタイルの古い建物の一部をB&Bにしていた。
小さくて古い石造りの建物だったが、中はきれいに改装されていた。
部屋は小さかったがシャワー、トイレ、洗面台があり、居心地は良かった。

行きたい場所、見たいところは、たくさんあった。
しかし、まずは、湖水地方全体の雰囲気を知りたかった。
いったいどのような場所なのか?
雰囲気を味わってみたかった。

「ミス ポター」の映画や谷村志穂の「湖水地方を歩く」でなんとなく理解しては
いたが、実際に この目で見、心で感じたかった。そこに流れる風を感じたかった。

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できるだけ全体像を掴みたかったので、一日ミニバスツアーに参加した。
主な湖、9つを回るツアーで、参加人数は10人余。マイクロバスで回った。
国籍は様々。共通言語は英語。国が違えば考え方、感じ方、生活習慣が異なる。
おもしろい、笑いが絶えないツアーだった。

ミニバスは、湖水地方を縦横に走り、十分にその魅力を伝えてくれた。
ワーズワースが、ヨーロッパ放浪の旅の後、この地を気に入り終生ここで生活を
したその気持ちがよくわかった。
現在その大部分の土地が ナショナルトラストによって管理されているので、
風景が大きく変化することはない。

翌日、ピーターラビットの作者ベアトリス・ポターの住んでいたヒルトップ、
ワーズワースの最初の住居のダブコテージ、ワーズワースが通ったグラマースクール
等を見てまわり、心にいつまでも残る楽しい時間を過ごせたのは最高だった。


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ヒルトップ

ヒルトップのある部屋の机の上に、
彼女の水彩画、スケッチブック、愛用のWinsor & Newton、絵筆を
見つけた時は本当に嬉しかった。
「わぁ〜、私と同じ絵の具やないの!うれしいっ」


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ダブ コテージ

「ここにワーズワースが住んでいたのだ」と思うと、
きれいな流れるような英語で話すガイドの説明もどこかに吹っ飛んでしまった。
「ここでどのように住んでいたのだろう?どんな風に感じていたのだろう?」
そればかり考え、全てを記憶にとどめたいと
夢中で各部屋と庭を見学して回った。


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グラマースクール

建物の中に入ると、ガイドのおじさんがおり一応おおよその説明をしてくれた。
あとは自由に気の済むまで見学をしてもよいということだった。
ワーズワースが座っていたと言われている机の上に
自身によるナイフか何かで彫られた落書きが残っていた


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風除けの石を積み上げた塀とストーンコテージ

この辺りではどこにでもある風景
ヨークシャーティーの絵柄を思い出した



番組の終了と共に、懐かしい思い出の時間から我に返った。

機会があればもう一度行ってみたい場所。
できたらウォーキングを楽しみたいなぁ。
また行く機会が巡ってくるだろうか?
期待したい。


by PochiPochi-2-s | 2015-08-16 23:10 | 旅行 | Trackback | Comments(0)
「あっ、サンモリッツ。ねぇねぇ、見て見て。ここここ、セガンティーニ美術館。
懐かしいわ。3部作の絵の前でどれほどの時間 眺めていたことか…」

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《セガンティーニの3部作》
「生 Das Leben』『自然 Die Natur』『死 Der Tod』

ここでしか見ることができない

(スイス観光局のWebサイトより拝借)


先日 BSで、

『プレミアムカフェ スイスアルプス(2) - スイスアルプスの名峰をめぐる
4人のガイドの案内で、
1)グリンデルワルト - アイガー、メンヒ、ユングフラウ
2)ツェルマット - マッターホルン、モンテ・ローザ、モン・ブラン
3)アルプスの光 - サンモリッツ、セガンティーニ・ヒュッテ』
4)イタリア側からのアルプス - モンテ・ローザ

を見ていた時だった。

懐かしかった。

グリンデルワルト、ツェルマット、サンモリッツ。
どの映像もすべて懐かしかった。


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湖のこちら側からセガンティーニ・ヒュッテのある山を望む


2010年6月 再び ハンブルグ郊外に住む高齢のメミング夫妻を訪ねドイツに行く
計画を立てていた。ちょうどその時、シンガポールからドイツ南部の町ウルムに
引っ越したばかりのアンジーからメールが届いた。

「好都合だから、私の家にも来てください。ゲストルームがあるから。
会ってゆっくりお喋りがしたい。『日本で泊めてもらったお礼がしたい』
とフランツも言っているから」

2箇所に宿泊させてもらえる。でもどういう旅行日程にしようか。
悩んだあげく、

関空(発)→フランクフルト→ウルム→サンモリッツ→チューリッヒ→
(ナイト・トレイン)→ハンブルグ→関空 (着)

サンモリッツに立ち寄ったのは、
何処にも寄らず、友人の家から友人の家への移動だけでは、いくら私でも“気分的に
しんどい”と感じたから。

正解だった。

サンモリッツでは、自分以外の人に気を使うことなく、自分のしたいようにし、
行きたいところに行き、見たいものを見、食べたいものを食べることができる自由を
心から楽しめた。

サンモリッツに立ち寄った理由は2つあった。
1) セガンティーニの絵を見る。 特に3部作。ここでしか見ることができない。
2)ベルニナ急行のパノラマカーに乗りティラノ(イタリア)までの車窓風景を楽しむ。
天気がよければ途中下車し、ハイキングを楽しむ。

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ベルニナ急行

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サンモリッツ→ティラノ→サンモリッツ

1日目、少し早めにホテルを出た。
ワクワクする気持ちを少し鎮めようと、湖を望むベンチに腰掛け開館時間を待った。


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湖畔に建つセガンティーニ美術館

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(写真撮影ができなかったので、Webサイトから絵の写真2枚を拝借)

午前中 、思いがけないほどたくさんの絵を心ゆくまで楽しみ、午後からはセガンティーニが晩年を過ごし 彼のアトリエのある村・マローヤまでバスで行くことにした。シルス湖に沿ってバスは走り、40分ほどで到着。あいにく小雨が降り 天気は悪かったが、村の雰囲気がわかり充分楽しめた。ただ、訪れた時期がまだ観光シーズンに入ってなかったのでアトリエの中の見学ができなかったのは残念だった。


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セガンティーニのアトリエ

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郵便局前から出るバス


《ガイドブックより》
ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858〜99年)はこのエンガディン地方をこよなく愛した風景画家で、印象派のタッチに似た23点の絵画は「アルプスを描かせたら右に出るものなし」と高く評価されている。
この美術館は 彼の没後100年を記念して改装され、石積みの建物自体も一見の価値がある。ドーム型ギャラリーはセガンティーニがデザインし自然光が入るようになっている。『生』と『自然』は夕刻なのに対し、『死』は早朝の光の中に描かれている。また この美術館の前から湖を挟み遠く向かいの山の上に、セガンティーニが『自然』を描きながら息を引き取ったシャーフベルクの山小屋が小さく見える。美術館は、この小屋に向かって建てられた。

マローヤから更に奥の小さな村ソーリオまで足をのばしたかったが、時間が足りないので諦めサンモリッツに帰った。新田次郎が、著書「アルプスの村・アルプスの谷」のなかでソーリオを絶賛している。いつかもう一度この場所をぜひ訪れてみたい。

テレビは サンモリッツのセガンティーニ美術館から湖の対岸のシャーフベルク山の山頂にあるセガンティーニ・ヒュッテまでガイドが案内する場面になった。

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セガンティーニ・ヒュッテ近くからの眺望
眼下にサンモリッツの町と湖

向かって左手前の石のところに座り、『自然』を描いたと言われている
(Webサイトから拝借)


かなりきつい山登りかと思われたが、ガイドがゆっくりと歩き説明しながら登っていく山道は、テレビ画面で見る限りそれほどでもないようだった。
テレビ画面に映る山からの眺望のすばらしさを考えた時、
セガンティーニがここで一体何を感じ、またどのように感じて絵を描いていたのかと思い、自分も同じ場所に立ち、描かれた絵を想像しながら、何かを感じたくなった。
ここを流れる風を感じたくなった。

この場所もいつか訪れたいと思う場所の一つになった。

最近 BSにはまっている。
このスイスアルプスの放送は2日間にわたって放送された。
4人の山岳ガイドが案内するアイガー、メンヒ、ユングフラウ、モンブラン、マッターホルン、モンテローザ、アレッチ氷河、イタリア側からのスイスアルプス等々。
どの場所もすばらしい映像で魅了された。

行ったことのある場所をもう一度思い出しながら見る映像は 心に響くものがある。


尚、2日目のベルニナ線乗車は 行きは天気もよく快適だったが、国境を越えイタリアに入る頃から雨が降り出しティラノに着く頃には土砂降りの雨になってしまった。帰りはもちろん雨。車掌からの風景も雨に煙るものとなり、もくろんでた途中下車でのハイキングも諦めざるをえなかった。また一番高いところにある駅付近では、6月にも関わらず雪が舞っていたのには驚いたのもだった。

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雨のティラノ駅(イタリア)

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雪が舞い散る駅


楽しい、幸せな時間を過ごせた2日間だった。


by PochiPochi-2-s | 2015-06-29 22:24 | 旅行 | Trackback(1) | Comments(2)
昨日の朝も雨。
絵を描くのにも疲れたので、何気なくテレビをかけた。
《「世界一周魅惑の鉄道紀行」- マッターホルン トレッキング紀行 アルプスの日の出を見に行こう 》という番組が、BS6で放送されていた。


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マッターホルン
(番組のホームページから借りました)


「わぁ〜、懐かしい!
ロートホルンに行くケーブルで出会った、ハイデルベルクから来ていたドイツ人夫婦
と連れていたジャーマンシェパード、まだ元気なのかなぁ。あの時 住所を聞いておけばよかった…」




2002年、友人のルース・メミングさん夫妻をハンブルグ郊外の家に訪ね楽しい時間を過ごしたのち、ハンブルグで落ち合った日本からの友人夫妻ともブレーメンで
別れ、夜行列車でスイスへと一人旅立った。


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(上) 夜行列車・シティ ナイト ライン
ブレーメン→ハンブルグ→バーゼル(スイス)
(下)バーゼル到着、6:00am


「ハンブルグとその周辺の街だけを訪れて、帰ってくるではつまらないじゃないの。
どうせ飛行機でヨーロッパ往復するのだったら、帰りはスイスから関空へ帰りたい。
時間節約のため、ドイツ・スイス間は夜行列車を使えばいいじゃない。以前 行けなかったツェルマットに行ってマッターホルンをぜひとも見てみたいし、ハイキングもし
てみたい。一人でも大丈夫やろう。スイスは安全な国やから」

だいたいの計画が決まれば、行動は早い。
飛行機のディスカウントチケット、ジャーマンレイルパス、スイスレイルパスの
購入。夜行列車の予約、ツェルマットでのホテルの検索、国際FAXでの予約。
全て自分一人でできた。

夜行列車が早朝にバーゼルに到着。スイスフランに交換。
バーゼルの街は以前に来て知っていたので、すぐにベルンに電車で移動。
荷物をコインローッカーに入れ、朝8時から夕方までバーゼルの街を散策。
再び電車に乗りツェルマットへ。途中ブリークで電車を乗り換えた。
この駅も懐かしい駅だった。

憧れのツェルマットの駅に到着した時の気持ちは、今でも鮮明に覚えている。
山に登ったことのある人なら、一度はこの目で本物の山を見てみたいと思うもの。
宿泊先の小さなホテルまでピョンピョン跳ねていきそうなほど嬉しかった。


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もらってきたパンフレットの写真より
私の泊まった小さなホテルも写っている


翌日早々に登山電車へゴルナグラートへ。
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購入した連続絵葉書より


「わ〜っ、最高‼︎」

あとは言葉が出なかった。

登山電車の車中で、
週末を別荘で過ごすためにチューリッヒから来たという婦人に声をかけられた。

「どこの国から来たの?あなた幸運よ。ここ暫くお天気がよくなかったの。
雨が多かったわ。今日は うってかわって最高のお天気。気持ちがいいわよ。
山もよく見えるわ。どうぞ充分楽しんできてね。ほらアルペンローゼが満開よ」

ゴルナグラートの展望台から見るマッターホルンに、言葉で言い表せないほどの
感動をおぼえた。魅了された。

展望デッキの上でお喋りをしながら一緒に山を見ていた北ヨーロッパからの観光客
たちは、あまりの太陽光線の強さに皮膚ガンを恐れ、この上もなくすばらしい景色
の観賞もそこそこに建物の中に入ってしまった。
皮膚ガンの心配もないアジア人の私は 充分に心ゆくまでマッターホルンを眺め、
写真を撮り、途中駅リッフェルベルクから歩いて山を降りたのだった。


翌日も快晴。
違った角度からマッターホルンとモンテローザを見たかったので、
ケーブルカーとロープウェイを使ってロートホルンまで行くことにした。


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ハイデルベルクからのドイツ人夫婦愛犬・ジャーマンシェパード


ロープウェイの中でジャーマンシェパードがおとなしくお座りをして乗っていた。
我が家の愛犬ポチを思い出しその犬にかまっていると、犬の側にいた女性が話しかけ
てきた。

「犬が好きなの? どこから来たの?」
「ええ、大好き。私も飼っているの。日本からよ」
「私たちはハイデルベルクからなの」

そんなとりとめもない話をしている間、彼女の後ろに座り、何度も何度も登山靴の
靴紐を結び直しては 「これでいいのか。正しく結べているのか」と聞く男性がいた。
その都度「違うわ。間違っている。もう一度結びなおしてね」と彼女は答えていた。

「この人はね、私の主人なの。アルツハイマー病を患っていて、記憶がだんだん薄れ
ていくの。ツェルマットには結婚した時から毎年彼と来てハイキングや登山をしたわ。楽しい時間を過ごした思い出深い場所なの。今はまだ自分で歩けるから、私が彼を
連れてきて、一緒にハイキングを楽しんでいるの。でも、もうすぐこんなこともできなくなると思うわ。この病気は最後は身体の自由が聞かなくなるから。この犬もね、もう8才のおじいさんなの。ジャーマンシェパードは身体が大きいから、せいぜい生きて10年。あともう少しすれば主人もこの犬もいなくなると思うと淋しくてたまらないの。でもできる間はこうしてみんなで楽しもうと思ってるのよ」

ロープウェイを降りる直前、彼女は私にそのように言った。

展望台のテラスのところで写真を撮りましょうと言ってくれた。
私と彼女の愛犬の。
記念にと彼女たちの写真も撮った。

「あれから10年以上経つ。今はもう、彼女は一人なのかな?
相変わらず、マッターホルンを見るためにツェルマットに出かけているのかしら」


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アルバムから途中の山小屋のテラス

ロートホルンから一人で歩いておりた。
写真を撮ったり、すけっちしたり、高山植物の花を見つけては喜んだりしながら。

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逆さマッターホルン


快適なハイキングだったのを今でもよく覚えている。

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アルバムから絵葉書2枚
昼間のマッターホルンと朝焼けのマッターホルン(モルゲンロート)

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アルバムから・ツェルマット家々

またいつかもう一度行ってみたい。
心ゆくまでマッターホルンを眺めながら楽しい時間を過ごしたい。
今なら山のスケッチも描けるかもしれない。

番組を見ながら楽しい夢のような想像をしていた。


by PochiPochi-2-s | 2015-06-22 22:00 | 旅行 | Trackback(1) | Comments(2)
「私は まだ ポツダム宣言の内容について詳らかに読んでいません」
つい先日のこと、国会の党首討論で首相が思わず答えてしまい、ここ2〜3日、
マスコミを賑わせている。

“ポツダム宣言”という言葉が、 私に2011年8/12〜8/21の中欧への旅行、とりわけ
ベルリンとポツダムでの印象深かった出来事を思い出させた。


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「ベルリン・ブランデンブルグ門 壁の跡》
(from my sketch book)


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《壁の跡に埋め込まれたプレート》


旅程は、ベルリンから始まり、ポツダム、ドレスデン、マイセン、プラハ、チェスキークロムロフ、ハルシュタット、ウィーン、ブラスチラバ(スロヴァキア)を巡り、最後にハンガリー・ブダペストへ。グループツアーに参加。

私には、それぞれの場所に訪れたい動機があり、なかなか印象深い旅行っだ。

中でも、ベルリンとポツダムは強く心に残った。

ベルリンを訪れたのは、8月13日。
1961年8月13日に突然ベルリンの壁の工事が開始され、それから50年目のその当日
の朝だった。正午ジャストに一分間の黙祷が捧げられ、メルケル首相とウルフ大統領、ベルリン市長が出席し、式典が執り行われる予定だった。ブランデンブルグ門の東側(旧東ベルリン)では、会場設営に従事する人たちが忙しく働いていた。

正午ジャストに教会の鐘が鳴り響き、厳粛な黙祷が始まった。
日本の8月6日(広島)、9日(長崎)、15日(終戦)の『二度と再び戦争は起こさない』
という“平和への祈り”“不戦の誓い”の黙祷と全く同じ。戦後 稀に見る驚異的な復興を
遂げ、豊かで平和な国になった自分の国・日本を想い、『平和であることの尊さ・
ありがたさ』を身に染みて感じた。

壁がなくなったのは、1989年11月19日。
永遠に存在し続けるだろうと思われていた壁が、僅か30年足らずで崩壊するとは、
当時、いったい誰が予測できたであろうか?
悲劇の象徴のようなベルリンの壁だった。

偶然とはいえ、
“この日”、“この時”、”この場所”に行き合わせた幸運に感謝したのだった。

ベルリンからポツダムへ移動するバスは、グリーニッカー橋を渡った。
「この橋の上で、両陣営の捕虜が交換された」と、ガイドは説明していた。



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《ベルリン郊外、グリーニッカー橋》


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《ポツダム会談の会場となったツェツィーリエンホーフ宮殿》


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《会談の行われた部屋》



「この部屋でポツダム会談が行われました。参加国、参加者は誰ですか?」
旧東ドイツ出身の女性ガイドは質問した。

ここは答えることができた。
アメリカ、イギリス、ソ連。 トルーマン、チャーチル、スターリン。

「時期は?」
1945年7月18日から8月2日まで。
なんとかいけた。

「ポツダム宣言はどの国の首脳による宣言ですか?」
アメリカ、イギリス、中国。その時、ソ連は日ソ不可侵条約のため参加できず、
8月8日の対日宣戦布告の後に加わった。
ここもなんとかいけた。

「では、ポツダム宣言の勧告をした時の日本の首相は誰ですか?
その時、彼はどのような言葉を使いましたか?」

ええっ〜⁉︎ 知らんわ。
みんな一瞬凍りついてしまった。
ほとんど誰も答えることができなかった。
主人がポツンと言った。
「鈴木貫太郎。黙殺する」

女性ガイドは言った。
「そう、そのとおりです。正解は、鈴木貫太郎首相。
日本はすぐには回答せず、7月28日、彼は『宣言を黙殺する』と発表しました。
黙殺という言葉は英語に翻訳するには難しく、結局は“ignore”(無視する・認めない)が使われました。その後、広島と長崎への原爆投下によって8月14日の無条件降伏を通告し、第二次世界大戦は終わりました。
このような大事なことを、なぜ、ほとんどの日本人ツアー客は知らないのですか?
不思議です。私には理解できません」

全く知らなかった。東條英機の名前は知っているが、鈴木貫太郎の名前なんて聞いた
こともなかった。実際、現代史は、学校の授業では全く習っていない。日本史の授業
は、いつも、明治時代の初めで終わっていた。

恥ずかしい思いをした瞬間だった。

日本人でありながら日本の現代史を全く知らないということを、思い知らされた。

なぜ主人は知っていたのか。
あとでこっそりと聞いてみた。
「たまたま歴史もんの本で読んだことがある」ということだった。

心に深く刻み込まれた日だった。
これから先、今日のことは、絶対に忘れないだろうと思った。

翌日訪れたドレスデンもまた心に深く残る街だった。
連合軍の激しい空爆で、一夜にして、破壊され尽くしてしまった街。
ドイツ人は、その街を、戦後、時間をかけてコツコツと見事に復元した。
まるでジグソーパズルを解くかのごとく、瓦礫の中から元の石を見つけ、使えない時は新しい石をはめ込み、完全なまでに元の建物そっくりに復元した。その努力と忍耐、根性に感服する。


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エルベ川から見たフラウエン教会》



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《新旧モザイク模様の建物の壁》

たった一晩の大空襲で完全に破壊された建物の壁の石を
まるでパズルを解くかのごとくに
一つ一つ元の場所を見つけては そこにはめ込みながら
戦前の写真に基づいて復元していった


by PochiPochi-2-s | 2015-05-24 21:54 | 旅行 | Trackback | Comments(2)

生きている喜びを感じられるように生活したい


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