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チョコレート

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ブログ友Dekoさんに頂いたスノードロップが咲いた


昨日のことだった。

「なあ、なんとかの真珠ってどこのことだった? 何の真珠だった?」
2階から主人の声がした。
出かけるのをやめ、 CDを聴きながらマムシグサのスケッチをしていた時だった。
木、金、土と3連続で外出が続くと、水曜日に絵の教室から持ち帰った草花が枯れてしまう。
湿らせた新聞紙に包み、ナイロン袋に入れ、冷蔵庫の野菜室で保存してはいるが、そう長く持つはずはない。早くスケッチだけでもしておかなくてはと、急遽遠出をやめ、マムシグサのスケッチと格闘していた時だった。

「うん?何?どうしたの?
“ドナウの真珠”のこと? ハンガリーのブダペストのことだと思うけど」
「チェコのモルダウはドナウと違うんやったかな。モルダウはどこへ流れていくのかな」
「チェコからドイツに入りエルベ川と合流し、ドレスデンからハンブルクへ流れる。
最後は北海へ流れこむと思うわ。それがどうしたん?」
「いやちょっと知りたいことがあって」

ハンブルグと口に出して言ったとたんに、私の心にメミングさんの顔が浮かんだ。
「どうしてはるかな。夏から手紙も届いていないし。
今年もまたカナリア諸島に避寒にいってるのだろうか」
あの懐かしい笑顔、話し方、声を思い出し、心はメミングさんのところへ飛んでいった。

「〇〇ーコ、チョコレートはどのようなのが好き?
ナッツが入っているのがいい?それともチョコレートだけのものがいい?
ブラック? セミスウィート? それともスウィート?」
初めて彼女をハンブルグ郊外の家に訪ねた時のことだった。
しばらく話しをした後で、何の脈絡もなく突然聞かれたのだった。
小さな丸テーブルの上にはコーヒーとチョコレート菓子が置かれていたが。
「私、何も入っていないスウィートが好きです」
確かそう答えたが、会話の流れの中のひとコマ、いつの間にか忘れてしまっていた。

この会話から4、5日後、初めてひとりでリューベックに行くことになった。
出かける準備をしていた私に、私が好きだと言ったチョコレートを手渡して彼女は言った。
「〇〇ーコ、はい、あなたの好きなチョコレート。これを持っていきなさい。
レストランでの一人だけの食事は、楽しくもないしおいしくもない。
そのうえ、値段も高いしテーブルチャージやその他のお金もかかる。
不経済だと思うので、お腹が空いたらこのチョコレートを食べて過ごしなさい。
夕食を十分に用意して待っているから。
私たちは昼食と夕食をひっくり返してもいいから。
朝と昼に同じものを食べて待っているから。気にしなくていいのよ。
それよりか私たちも大好きなリューベックの街を心おきなく楽しんできなさい。
レストランでの食事時間はもったいないわ」
また、「水も、ペットボトルを持っているのなら、それに水道水を入れていけばいい。
水道水は飲めるから。もしガス入りの水が好きならばそれも家にあるから」とも言ってくれた。

この時初めてドイツ人(いやこんなことをするのはメミングさん夫婦だけかもしれないが)というものを知ったのだった。
心に深く残る瞬間だった。とても印象的だった。
「なるほどなぁ。でも私は客人にこんなアドヴァイスをできるだろうか。
夕食はたっぷり用意しているから、お昼はチョコレートを食べて空腹を満たすようにという」
そう思ったことも確かだった。

チョコレートを食べて空腹を満たし、街の中を歩き回り、かつてハンザの女王と呼ばれた雰囲気のあるこの街を十分心から楽しめた。
お礼にと買ったリューベックのお土産のマジパン。
彼女は大喜びで夕食を減らしてでも毎晩ひとつづつ食べると言い張った。
クリスマスの時にのみ買ったりプレゼントしたりするお菓子だという。
リューベックの名産品らしかった。
おいしいチョコレートを見たり食べたりすると必ず思い出す彼女の言葉とチョコレートの味。

あの初めてのヨーロッパへの一人旅からもう15年も経った。
メミングさんも夫のルーディガーも二人とも85歳を過ぎた。
「まだまだ元気でいてほしいなぁ。今年のクリスマスカードには何を書こうか。
プレゼントは何を送ろうか。彼女たちの好きないつもの生チョコもいっしょに送ろう。きっとにっこり笑って毎晩ひとつづつ食べることだろう。」

そんなことを思いながらマムシグサのスケッチと格闘していた。




by PochiPochi-2-s | 2017-11-13 14:30 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

ひさしぶりッ!

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植え込みを待つヴィオラやネメシアなど


「元気?
11月1日に用事があって大阪に行くのだけど、久しぶりやから会って顔を見たいんや。
Nゼミのみんなに声をかけようと思っているので、出てこれるかな?
場所は追って連絡するわ。たぶん、梅田か西宮北口あたりになると思う」
先週初め頃、夜に突然電話が鳴った。
四国松山市近郊に住む友人のT君からだった。
「Nゼミ(大学入学時の基礎ゼミ)のメンバーで会って食事をしながら話したいんや。
久しぶりに都会(?)の雰囲気を味わいたいんや。今みんなに連絡している」と。

当時大学紛争のため入試は機動隊の見守る中で行なわれ、校舎は7月初めまで学生に占拠されていた。そのような状況下でできるだけ新入生をまとめ、勉強させようと考え出された基礎ゼミという制度。選択した第二外国語でクラス分けされ、担当教官が正副2人づつ配されていた。キャンパスが解放されるまで奈良や京都のお寺によく集まっては講義を受け、クラスでの話し合いがあった。それぞれの専門課程に進む前のクラスで、将来の専攻に関係なくさまざまな学生が混ざっていた。なかでもこのNゼミには個性的な人が多く、みんなコンパが大好きで、いつもどこかに寄り集まっては飲んで、食べ、談笑していた。卒業の時までみんな仲がよく、2回生の時の基礎ゼミはどのようなゼミだったのか、3人ともほとんど覚えてはいなかった。それくらい印象が弱かったのだろう。それに比べてNゼミは強烈な印象のクラスだった。

夕方5時半、待ち合わせの場所に着くように家を出た。
結局 突然だったのと週末じゃなく平日の夕方だったので、集まれたのはT君・U君・私の3人。
T君とは時々クラブの同学年の飲み会で会っていたが、それでも4、5年ぶり?
U君とはいつ会ったのだろうか?
もう20年以上も前だと思う。
大阪南河内にある大学の名誉教授の肩書きの名刺をもらった。
この3月で完全に退職したという。
しかも、近くの、春には必ず訪れる桜の名所・夙川に住んでいるとは、びっくりした。
今でも週一回、非常勤講師として母校で教え、家から片道45分をかけて歩いて通い、趣味で能を舞い、謡を謳うという。さすが京都出身と思いきや、小さい頃から嫌々ながら両親に習わされた結果だという。嬉しいことに大槻能楽堂での発表会時のチケットをプレゼントするという約束をもらった。
「この20年間自分の家から大学まで40分で歩けたのが、最近は45分かかるようになった。
悔しいで。たった5分の差とはいえ、これからはだんだんと歩くのが遅くなっていくのだろうなぁ」
彼のその言葉に思わずニンマリとしたのだった。
のんびりとした、いい自分の時間を過ごすシニアになっていた。
話し方も穏やかで、人柄そのものだった。
彼が過ごしてきた人生は彼なりに満足できるものだったのだろうとは容易に推測できた。

最初は「たった3人だけ?」と思ったが、かえってその少なさが幸いしてか話は随分弾んだ。
あまりの懐かしさに、2時間飲み放題の時間はあっという間に過ぎてしまった。
中華料理だったが、出てくる料理の写真も彼ら二人の写真も撮り忘れ、ひたすら話していた。
U君とは他にも共通の趣味があった。
彼もまた西宮芸術文化センター(コンサートホール)の会員でよくコンサートに出かけるという。
「ひょっとしたら今まで知らないままに出会っていたかもしれないなぁ」
なんて話も出て楽しい会話がさらに弾んだ。
「ほら、T。 田舎もいいけど、これが都会生活の楽しさや。いいやろう」
冗談半分でT君をからかうU君の言葉に思わず吹き出してしまった。

会話は、おもに“Nゼミでのこと”“卒業後今までのこと”“今何をしている”“これからどうしたい”というようなことで、子どもや孫の話はいっさい出ないというのも、また興味深かった。
女性だけの集まりとはかなり違う雰囲気で、私にはこちらの方が気楽でおもしろくビール片手に彼ら二人の話に興味津々で耳を傾けていた。

将来の自分の姿がまだわからず、なんの損得勘定もなく、ただ学生というみんな平等の横並びの身分でひたすら好きなことに打ち込んでいた青春時代。
そのような時代を楽しく懐かしく思い出しながら、今まで過ごしてきた半世紀近くの自分の時間を振り返るのもそう悪くなないなぁと心の中で密かに思っていた。
明日予定があるT君のことを考え、近いうちの再会を約束し、別れたのだった。

彼は2泊3日で大阪に出てきていた。四国松山から高速バスに乗り、明石大橋を超え6時間余かかったという。かなり疲れた様子だった。自分で運転してくるよりも楽かもしれないと思ったらしいが、バスも思ったほど楽ではなかったと呟いていた。
それでも京阪神間に出てきたいと思うのは、やはり青春時代を過ごした土地がいつまでも懐かしく忘れられないからなのだろう。この地に来れば、何人かの懐かしい友に気軽に電話一本で約束して出会え、心休まるホッとした時間を持つことができるのだろう。
「会えて話ができよかったなぁ」
帰りの電車の中で、もう一度楽しかった会話を思い出し、そう思った。




by PochiPochi-2-s | 2017-11-01 23:32 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
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次男 (4月から高校生)

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'娘 (4月から大学3回生)


「まあ、懐かしい! 横手山のスキー場やわ」

連日の暑さに絵を描く気力も失せ、今日はライティングビューローの中に入れている
手紙類を片付けるぞと小一時間ほど整理をした。
よくもまあこれだけ長い間整理もせずに放っておいたものだと、我ながらあきれてしまった。

「あらっ、この写真」
一ヶ所にまとめてていた手紙や葉書、カード、写真などを選り分けていた時だった。
懐かしい写真を見つけたのだ。
最近ふとしたことから思い出し、どこに入れたのだろうと探していた写真だった。

結婚当初からの唯一の共通の趣味はスキーだった。
子供たちが2、3歳を過ぎた頃から、スキーに連れていくようになった。
最初はびわ湖バレイなどの近場で、その後は長野へ。
長野道ができ栂池高原から志賀高原へ。
当初自分たちが滑れる時間ははとんどなく、子供たちを抱きかかえて滑る時間の方が多かった。それでもスキー場にいるだけで心が弾み、楽しいものだった。
その内に子供たちも自分で滑れるようになり、家族で滑るスキーの時間はもっと楽しいものになった。
今あらためて長野で過ごした時間を振り返ってみると、何物にも代え難い貴重な時間、宝物のような時間であったように思える。常に笑顔、明るい笑い声が絶えなかった。

1998年、春3月。
長男が抜けた家族4人で志賀高原にスキーに行った。
高校入試が終わり、ほっとしてお祝いを兼ねみんなで行ったスキーで、
娘も、とっくん(次男)のためならと北海道から合流したのだった。

「さあ、あの横手山のコースを滑り降りるぞ !」
長いリフトに乗り、眼下に見える雪に覆われた美しい森を眺めながら過ぎる時間は
何時迄も心に残る忘れ難いものとなった。
勇気を出して、いつの間にか私よりもスキーが上手くなってしまった子供たちと主人の後を転けずに無事に滑り降りれたことも、写真を見ていて思い出した。
今から思うとこの時が家族で行った最後のスキーだった。

次男にとっては志賀高原、特に寺子屋スキー場は、よちよち歩きの頃から過ごしたスキー場。
大学生になり、友人たちと志賀高原の寺子屋スキー場に行った時、思わず懐かしさがこみ上げたと言っていた。

この最後の家族スキー旅行から19年。
主人は完全退職し、娘は結婚し小さい2人の男の子の母親となり、長男も結婚し、中1と小3の男の子2人の父親になった。

この二枚の写真は、私に辟易する暑さを忘れさせ、久しぶりに様々な懐かしいできごとを思い出させてくれたのだった。


More クレマチスの種
by PochiPochi-2-s | 2017-08-02 23:35 | 思い出 | Trackback | Comments(2)

台風

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降りしきる雨に濡れるデッキ



午前中に長崎に上陸した台風が四国を通り抜け、夕方には紀伊半島に再び上陸した。
今回の台風は予想以上にスピードが早い。
いつもよりかは少し激しい雨が降ったが、思ったほどきつくはなく、
雨が降るのを横目で眺めながらウリハダカエデの絵を描いていた。

「台風か…」
そう思った途端に、高知出身の友人との会話を思い出した。

「台風って聞くと、思い出すのはいつも同じ景色やわ。
父が家の外から窓枠に板を釘で打ち付け、家の中では 畳をあげて 窓を支えるために
窓に立てかけた。台風が通過する時、その畳を家族みんなで必死に押さえたわ。
私の生まれ故郷もあなたの故郷も、共に、台風銀座と呼ばれていたものね」

台風と聞けば、私も彼女と同じ思い出、同じ景色が真っ先に浮かんでくる。
台風が 四国高知辺りを通り、室戸岬から四国と和歌山の間の紀淡海峡を大阪湾に向かって
北上する時が、和歌山にとって一番危ない、危険な時だと、子供の頃から聞かさせ続けてきた。
「足摺岬じゃなく、室戸岬やで。怖いのは」
もう半世紀以上も前のことなのに、台風と聞くとその言葉を鮮明に思い出す。
家を、特に強風から守るために、ガラス窓に外から板を釘で打ち付ける。
これはいつも父の仕事だった。
母や祖母、子供達は畳を捲りあげ、窓に立てかけ、家の中からガラス窓を支える。
一番風の強い、台風が通過するときはその立てかけた畳をみんなで押さえたのだった。
あるとき、台風の最中、年の離れた下の弟がどうしてもアイスクリームが欲しいと言ってきかず、母が大雨強風の中買いに走ったこともあった。

今 私たちの住む家は、昔のものとは比べ物にならないほど頑丈なしっかりした造りになっている。もう外から窓に板を打ち付ける必要なんてない。
でも、人の記憶というものは、その怖かったことをいつまでも覚えているものなのだろうなあと、デッキに降る雨を見ながら思っていた。



by PochiPochi-2-s | 2017-07-04 23:32 | 思い出 | Trackback | Comments(8)
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昨日も昼の間やんででいた雨が、夜になると再び降り始め、今日の明け方まで降っていた。
朝食後 ふとデッキに目をやると、デッキのテーブルの上に置いている父の風蘭
たくさんの花芽がつき始めているのに気がついた。

生前、父は風蘭の花が大好きで、(実家の)裏山に行っては持ち帰っていた。
裏庭に植えている木の枝や裏山から持ち帰った大きな石に、水苔を使って貼り付けたり、
小さな植木鉢に植えたりと 、風蘭の世話をするのが父の庭での最大の楽しみであった。

「この家(私の家)にくると、風蘭が生き生きしてるのがよくわかるなぁ。
わしよりお前の方がよっぽど手入れがいいのかなぁ。
今度からわしの風蘭の元気がなくなったら、こっちに持ってくることにするわ。
その方が風蘭も喜ぶやろう」
父は笑いながらよくそう言っていた。

「こっちに来てよく見てみ。 同じ風蘭でも、茎の色が違うんや。
この赤い茎の花は少ないから珍しいんや。花にもほんの少しだけ赤い色が出てくるはずや。
赤い茎の花と緑の茎の花を混ぜて石にくくりつけといたから、咲いたら楽しみやで」
また、このようにも言っていた。

「本当に風蘭が好きだったなぁ。世話をしていたときの父の笑顔が忘れられないなぁ」
しばらくの間父のことを思い出し、風蘭を眺めていた。

どうしてこの花が好きだったのだろうか?
理由は聞いたことがなかった。
いつから好きだったのかきたこともなかった。
ただ家族の間では、『父=風蘭』が定着している。
桜、風蘭、鈴虫の大好きな父だった。

今日は7月1日。2017年下半期の始まりの日。
時間の過ぎるのは本当に早い!


♧ ♧ ♧


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昨日作った『ジェノヴェーゼ』で
今日はお昼ご飯に冷製パスタを作った。
トマトとジェノヴェーゼがよく合ってとてもおいしいと思った。

さて、次はこのジェノヴェーゼを使って何を作ろうかな?





by PochiPochi-2-s | 2017-07-01 21:39 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

桜吹雪

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先週の金曜日から降り続いた雨が止み、ひさしぶりにお日さまが顔を出した。
朝 肌寒く感じたが、午後からは少し暑いなぁと感じるくらいの陽射しになった。

絵の教室へと向かう阪急電車の車窓から、
満開の桜でピンク色に染まった五月山が見えた。
17年前の春 4月なかばも、五月山の3万本の桜は風に吹かれ、いっせいに花びらを
散らし、まるで桜吹雪のように宙に舞っていた。

その年もいつになく寒い春で、今年のように桜の咲くのが遅かった。
4月初め、実家の奥の和室には桜が咲くのを待ちわび、庭のハナミズキの花がやっと
ほころび始めたと喜ぶ母がいた。
前年の12月20日、母は待ち望んでいた80歳の誕生日を迎え喜こび、翌年の春の、当時下の弟が住んでいたアメリカ・ロスアンジェルスへの旅行を楽しみにしていた。
しかし、その4日後突然倒れ、病院に搬送されたのだった。CICU (coronary intensive care unit : 冠集中治療室)から普通病室に移り退院するまで2ヶ月あまりかかっていた。完治ではなく一応手続き上の退院で、倒れれば再び再入院ということだった。
3月初め母が退院した頃、運悪く高2だった次男の左足の骨にひびが入り、私が彼の通学の送り迎えをしなければならず、毎日母のことが気になりながらも なかなか思うようには和歌山の母のところへ行けない日が続いていた。
4月10日過ぎ 突然父から電話があった。再び母が倒れ病院に搬送されたと。
急遽駆けつけた病院の廊下で会った父の辛そうな、寂しそうな顔を今でも鮮明に思い出す。戦後の苦しいなか、共に力を合わせ、生活のために一所懸命働いて子供3人を育ててきた“戦友”とも言える妻が自分より先に逝ってしまうかもしれないというなんとも言えない苦しい、寂しい気持ちがありありとその表情に現れていた。
翌日 母は亡くなった。
お葬式が終わった次の日、何故か山一面に咲く桜を見たくて五月山まで見に行った。
当時、そこには3万本の桜の木が植えられていた。
散り始めていた満開の桜は風に吹かれ、まるで花吹雪のように宙に舞っていた。
いつまでも心に残る、印象深い光景であった。
「母は この桜の散り際のように、潔く、みごとにこの世から去って行ってしまった
なぁ」
なんとも言えない寂しさで胸がいっぱいになったのだった。
今日4月12日は母の祥月命日の日だった。
あの時からもう17年の年月が経つ。
「もう一度母の声を聞き、母と話をしたい」と頻りに思う自分に時々はっとする。





by PochiPochi-2-s | 2017-04-12 22:50 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
2、3日前のこと。
少し欲を出して多く描き過ぎたミツマタの花の絵に疲れ、桜の下見でもしようと
気分を変えるために出かけた。桜はまだちらほらだった。
帰り道、楽しみのひとつであるいつもの本屋さんに立ち寄った。
本棚に並べられていた雑誌を手に取りパラパラとめくってみた時、
「カメオとフィレンツェ」というタイトルが目につき、さっそく立ち読みをした。
見開き2ページの短いエッセイであった。


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読み進むにつれて、
初めてのヨーロッパ旅行でフィレンツェに滞在した時のことを思い出した。
この記事の中に書かれているヴェッキオ橋上に並ぶ貴金属店のショウウィンドウを眺めながら歩いていた時、ある店のウィンドウに飾られていたカメオに一目惚れしてしまったのだった。「どうしても欲しい。自分のお土産はこれだけでいい」と、電卓片手に辿々しい英語で値段交渉をし、買ったのだった。子供たちは主人が見てくれていた。

エッセイには、作者・ヤマザキマリさんが絵の勉強のため来ていたフィレンツェでのある老夫妻との出会いが書かれていた。
老夫婦はヴェッキオ橋近くにあった貴金属店を経営し、夫の方はカメオ職人だった。
彼は友人と二人、カメオの名産地であるナポリ近郊の町から1950年代初頭にフィレンツェにやってきて店を開いたのだった。
ある日、この店の前でふと立ち止まり、ウィンドウの前でじっと佇んでいたヤマザキさんをこの老人が見つけ、彼女に声を掛け、「もっと近くでご覧なさい」と店の中に誘ってくれたのだった。

老人は言った。
「お嬢さん、ご覧なさい。うちの店にあるのはね、全て地中海が生んだ素材で出来ているんですよ。何世紀も、何十世紀も昔から、地中海の人々に愛され続けてきたのと同じものを今も作っているんです。素晴らしいでしょう?」
またこうも言ったという。
「窓越しにあなたがデッサン紙の筒を持っているのが見えてね。芸術を学んでいるのなら、是非うちのカメオも見てもらいたくて声をかけました。そもそもフィレンツェは古代の美を探求する人々によって栄えた街ですから」

この老人フォルテさんの決め言葉は、
「カメオは地中海の恩恵と、我々職人の技が一体化した、古代から続く唯一無二の宝です」だったという。

このエッセイを読んで、最近はあまり使っていないカメオをもう一度出してきて、つくづくと眺めた。そして 思った。
「大切になおしておくのではなく、もっと使う機会を増やそう」

このカメオを買ったのは、1982年夏。
今から35年も前のことである。


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ペンダントにもブローチになるカメオ


* * *


【ヤマザキマリ】
漫画家。1967年東京生まれ。
'84年に渡伊し、
フィレンツェの国立アカデミア美術学院に入学。
'97年漫画家デビュー。
イタリア人の比較文学研究者との結婚を機に、
シリア、ポルトガル、アメリカを経て、現在はイタリアに在住。
2010年、古代ローマを舞台にした漫画『テルマエ・ロマエ』で
第3回マンガ大賞受賞、
第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、
世界8カ国に翻訳される。


More もうひとつのブローチ
by PochiPochi-2-s | 2017-04-06 23:15 | 思い出 | Trackback | Comments(8)

アキチョウジ

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「あらッ、アキチョウジの花が咲いているわ。
今年の天候は不順だが、草花は正直だなぁ。
毎年 咲く時期になると、心配無用とばかりに咲き始めるなぁ」

2、3日前の朝、庭の片隅でこのアキチョウジが咲き始めたのに気がついていた。

この花が私の小さな庭にやってきたのは、かれこれ もう10年以上も前になる。
私が絵を習い始めた頃、先生は、今と違ってまだ時間に余裕にあったのか、
クラスのみんなを近隣の野原や山に花や木のスケッチに度々連れて行ってくれた。

絵のクラスの、私が受けた初めてのレッスンも、
教室ではなく能勢の妙見口ケーブル駅近くの野原でだった。
当時そこにはまだまだたくさんの野草が咲いていた。
花のスケッチなどその時までしたことがなかった。
まして 透明水彩絵の具で色をつけるなど全くしたこともなかった。
何をどのように描いていいのか皆目わからず、ひとり困り果てていた。

『窮すれば通ず』
親切な歳上の人たちが「ここに来たら。私たちのグループに入ったら」と声を
かけてくれ、野に咲く花の名前を教えてくれたりスケッチの仕方を教えてくれた。
どの人もみんな野の花が好きで描くのが好きな人たちだった。
「ここで一緒にお弁当も食べましょう」とも言ってくれた。
その時そばに咲いていたのが、このアキチョウジだった。
知らない人達ばかりの中で緊張していた私の心がほっと解き放されたひと時だった。
嬉しかったので、一茎だけそおっと貰いナイロン袋に入れて持ち帰り、
挿し芽をして根が出てから山椒の木の根元に植えたのだった。
その時から10年以上も経つ今も、庭の片隅で消えてしまうこともなく、
毎年ひっそりと咲いてくれる。

「今描いているヒガンバナが終わったら、次の絵はこのアキチョウジにしようかな。
あの時のあの人たちは、どうしているのかなぁ。ほとんどの人が高齢になり、やめてしまった。もう一度会いたいと思う人もいるのになぁ」

心の中で密かにそう思ったのだった。

* * *

アキチョウジの花言葉 = 秘めやかな思い
また次のような短歌が歌われている。
秘めやかに思い深める昨日今日アキチョウジ咲くうつむきしまま (鳥海昭子)



More 今日の夕焼け
by PochiPochi-2-s | 2016-10-09 23:09 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

懐かしい人

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"豚飼いと豚たちの像"の前で
真ん中がアマンさん
友人のご主人と私の3人で


人は過去の何かを思い出す時、どのようなことがきっかけになるのだろうか。
今月の初め、いつも訪ねることを楽しみにしているブログの一つであるドイツに住む
sternenliedさんのブログで、興味深い記事『豚さんたちは人気者』とそこにアップされた写真に出会った。
ブレーメンの街角に置かれている"豚飼いと引き連れられた豚たち"の像である。

「あっ、この写真! 懐かしいなぁ」

ブレーメンの街が、思い出の中から鮮やかに浮かび上がった。
と同時に、懐かしい顔を思い出した。
アマンさんの顔だった。
ブレーメンに住む、優しくて、正直な、何事も一生懸命で、親切な牧師さんだった。

当時友人のHさん夫婦は、私がハンブルグに住む友人のメミング夫妻を初めて訪ねるという計画があることを知り、私にメールをくれた。2002年5月のことだった。

「あなたがハンブルグに行く時期に、自分たちもブレーメンにアマンさん訪ねる予定です。メミングさん家で落ち合い、一緒にブレーメンに行きませんか。彼がブレーメンの街を案内してくれるそうですから」

10日余宿泊させてもらった後、ハンブルグ駅まで見送ってくれたメミングさんに別れを告げ、友人夫婦と一緒にハンブルグからブレーメンに電車で向かったのだった。

ブレーメンの駅のホームでアマンさんは待っていてくれた。
彼はこの上もなく優しく親切な人だった。
まるで私欲というものが全く無いと思えるような人であった。
ボランティアでブレーメンの街のガイドをしている娘さんに前もって相談し、
私たちにガイドするコースを決め、説明の文章を考え、暗記していた。
驚いたことに、私たちの訪問する日の前日にも、全く同じコースを自分一人で歩いて
きちんと説明文を暗記できているかどうかを確認したということだった。
そのおかげか、説明はよどみなく、ジョークもすばらしかった。
最高のガイドだったことは言うまでもない。
私たち4人は四六時中笑いが絶えなかった。

またアマンさんの奥様もすてきな人で、優しく親切、お料理が上手だった。
お昼前にブレーメンに到着したので、
「少し早い目のランチをしましょう。
妻がランチを用意して家で待っていますから。
食事をしてからゆっくりと街を案内しますから」
アマンさんはそう言って、私たちを自宅に招待してくれたのだった。
ランチはサーモンのグラタンとサラダ、お皿いっぱいに盛ったイチゴとコーヒー。
アンネマリー(奥さんの名前)の料理はおいしく、
「ドイツの料理はねぇ〜」という私の偏見を見事に覆してくれるほどのものだった。

彼女は旧東ドイツ出身。
アマンさんは戦争中ユダヤ人収容所に入れられていたらしいとのことだった。
口には出さないが、かなり大変な時期を送ったのだろうと心に感じるものがあった。

アマンさんの人柄を表す今でも忘れられないシーンがある。
ブレーメンの街の中の古い通りを歩いていた時のこと。
そこは観光客が多く訪れ、また街の人たちもよく通る人数の多い通りだった。
その街角のあちこちに、壁にもたれて座り物乞いをするドイツ人青年が何人かいた。
みんな虚ろな目をして、汚れた服を着、まるで生気がないような姿だった。
誰もが横目で見ながら通り過ぎる中、
アマンさんは必ず、ポケットに手を入れ小銭を取り出し、
物乞いをする若者たちの手になにがしかの小銭を握らすのだった。
そして 微笑みながら一言二言声をかけ励ますのだった。
彼のズボンのポケットにはそういう若者たちに施す小銭がいっぱい入れられていた。
たまたま出会った一人の若者に小銭を施すことは誰でもできるが、
出会う若者全員に小銭を施すことができる人は、いったい何人いるだろうか。
この少し前、ハンブルグの街の中心にあるデパート近くの人通りの多い場所でも
物乞いをするドイツ人の若い青年を見たばかりであった。
誰一人として彼にお金を施している人を見かけなかったのだった。
それ故アマンさんの姿に感動したのはいうまでもないことだった。
彼の背中はどこまでも親切で、励ましの声はどこまでも優しかった。

その彼は今はもういない。
私が出会った翌々年、病気で亡くなられた。
あのすてきな家は教区の牧師館だったので、
夫人のアンネマリーは家を出て老人ホームに入ったと聞いている。
アマンさんは、今はもう もう一度会いたくても絶対に会えない人になってしまった。
でも、彼との思い出はいつまでも私の心の中にあり決して消えて無くなりはしない。
彼のことを思い出すと、いつでも私の心は暖かくなる。

その夜、アマンさんと別れ、友人夫婦と夕食を一緒にし、
夜行列車で一人スイスにたったのだった。
ブレーメンを出発し、ハンブルグを経由、バーゼル(スイス)には早朝6時の到着。
ベルンで少し遊び、ツェルマットに到着したのは夕方5時過ぎだった。

人は何かのきっかけで過去の懐かしい出来事や、出会った人を突然思い出す。
今回はsternenliedさんのブログの写真が私に懐かしい人を思い出させてくれた。
心うれしい、至福の時間を過ごせたことに感謝したいと思った。


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アマンさんの家
広い芝生の庭に面したテラス



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友人(左)と
ブレーメンの音楽隊の銅像の前で


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ブレーメン駅の前で
ここから夜行列車に乗ってスイスへ


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by PochiPochi-2-s | 2016-10-04 23:30 | 思い出 | Trackback | Comments(4)
「おばあちゃん、大雨だけどだいじょうぶ?」

正午12時過ぎ、cメールの着信音。
ハルちゃんからのメールだった。
『避難準備情報』(自主避難)が出ていた頃だったので心配になったのだろうか。
「おばあちゃんとおじいちゃんは大丈夫だろうか」と気にかけてくれるくらい
大きくなったのだなぁと思うと、感慨深いものがあった。

ふっと小さかった頃の"台風風景"を思い出した。

和歌山生まれの和歌山育ち。
いつも砂浜で遊んでいた浜育ちの私には、台風と聞くと必ず思い出す光景がある。
台風接近による荒れた海、波の様子と、
「台風がやってくる」と聞くとすぐに父がとった行動。
一階の屋根に上り、二階の建てつけの悪い南向きの窓の外から板をきっちりと
打ち付け固定する。屋根瓦のぐらついているところを見つけて直す。一階二階の
すべての窓の雨戸を閉める。庭にある、風で飛ばされそうなものを片付ける等
忙しく動き回る父の姿。
そして、いよいよ風、雨が強くなってくる前には、二階の窓に面した部分の畳を捲り
あげ、家の中から窓に立てかけ、桟の様な細長いつっかえ棒で畳を支え、押さえる。
強風で窓が吹き飛ばされないためだった。
ある日、四国高松出身の友人と話していた時、彼女も同じようなことを言っていた。
台風が来ると聞くと、外から窓に板を打ち付け、畳を捲りあげ中から窓に立てかけ
棒で支えたと。
太平洋に面した場所に住む人たちは皆同じようなことをしていたのだなぁと、
その時は変に納得したのだった。

「台風が室戸岬をかすめ紀伊水道に進路をとる時が、和歌山にとって一番恐ろしい。
台風の東側になるから」
小さい時から聞かされてきた言葉は、未だに耳に残っている。
それほど台風は、昔から脅威であった。

幸い私の住む地域では台風16号による風雨もたいしたこともなく無事であったが、
またしても多くに人たちが被害にあわれ、恐ろしい思いをしたかと思うと胸が痛む。
一日も早い復興を祈るばかりである。


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台風一過
夜中に月が見えた





by PochiPochi-2-s | 2016-09-20 23:20 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

生きている喜びを感じられるように生活したい


by PochiPochi-2-s