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桜吹雪

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先週の金曜日から降り続いた雨が止み、ひさしぶりにお日さまが顔を出した。
朝 肌寒く感じたが、午後からは少し暑いなぁと感じるくらいの陽射しになった。

絵の教室へと向かう阪急電車の車窓から、
満開の桜でピンク色に染まった五月山が見えた。
17年前の春 4月なかばも、五月山の3万本の桜は風に吹かれ、いっせいに花びらを
散らし、まるで桜吹雪のように宙に舞っていた。

その年もいつになく寒い春で、今年のように桜の咲くのが遅かった。
4月初め、実家の奥の和室には桜が咲くのを待ちわび、庭のハナミズキの花がやっと
ほころび始めたと喜ぶ母がいた。
前年の12月20日、母は待ち望んでいた80歳の誕生日を迎え喜こび、翌年の春の、当時下の弟が住んでいたアメリカ・ロスアンジェルスへの旅行を楽しみにしていた。
しかし、その4日後突然倒れ、病院に搬送されたのだった。CICU (coronary intensive care unit : 冠集中治療室)から普通病室に移り退院するまで2ヶ月あまりかかっていた。完治ではなく一応手続き上の退院で、倒れれば再び再入院ということだった。
3月初め母が退院した頃、運悪く高2だった次男の左足の骨にひびが入り、私が彼の通学の送り迎えをしなければならず、毎日母のことが気になりながらも なかなか思うようには和歌山の母のところへ行けない日が続いていた。
4月10日過ぎ 突然父から電話があった。再び母が倒れ病院に搬送されたと。
急遽駆けつけた病院の廊下で会った父の辛そうな、寂しそうな顔を今でも鮮明に思い出す。戦後の苦しいなか、共に力を合わせ、生活のために一所懸命働いて子供3人を育ててきた“戦友”とも言える妻が自分より先に逝ってしまうかもしれないというなんとも言えない苦しい、寂しい気持ちがありありとその表情に現れていた。
翌日 母は亡くなった。
お葬式が終わった次の日、何故か山一面に咲く桜を見たくて五月山まで見に行った。
当時、そこには3万本の桜の木が植えられていた。
散り始めていた満開の桜は風に吹かれ、まるで花吹雪のように宙に舞っていた。
いつまでも心に残る、印象深い光景であった。
「母は この桜の散り際のように、潔く、みごとにこの世から去って行ってしまった
なぁ」
なんとも言えない寂しさで胸がいっぱいになったのだった。
今日4月12日は母の祥月命日の日だった。
あの時からもう17年の年月が経つ。
「もう一度母の声を聞き、母と話をしたい」と頻りに思う自分に時々はっとする。





by PochiPochi-2-s | 2017-04-12 22:50 | 思い出 | Trackback | Comments(2)
2、3日前のこと。
少し欲を出して多く描き過ぎたミツマタの花の絵に疲れ、桜の下見でもしようと
気分を変えるために出かけた。桜はまだちらほらだった。
帰り道、楽しみのひとつであるいつもの本屋さんに立ち寄った。
本棚に並べられていた雑誌を手に取りパラパラとめくってみた時、
「カメオとフィレンツェ」というタイトルが目につき、さっそく立ち読みをした。
見開き2ページの短いエッセイであった。


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読み進むにつれて、
初めてのヨーロッパ旅行でフィレンツェに滞在した時のことを思い出した。
この記事の中に書かれているヴェッキオ橋上に並ぶ貴金属店のショウウィンドウを眺めながら歩いていた時、ある店のウィンドウに飾られていたカメオに一目惚れしてしまったのだった。「どうしても欲しい。自分のお土産はこれだけでいい」と、電卓片手に辿々しい英語で値段交渉をし、買ったのだった。子供たちは主人が見てくれていた。

エッセイには、作者・ヤマザキマリさんが絵の勉強のため来ていたフィレンツェでのある老夫妻との出会いが書かれていた。
老夫婦はヴェッキオ橋近くにあった貴金属店を経営し、夫の方はカメオ職人だった。
彼は友人と二人、カメオの名産地であるナポリ近郊の町から1950年代初頭にフィレンツェにやってきて店を開いたのだった。
ある日、この店の前でふと立ち止まり、ウィンドウの前でじっと佇んでいたヤマザキさんをこの老人が見つけ、彼女に声を掛け、「もっと近くでご覧なさい」と店の中に誘ってくれたのだった。

老人は言った。
「お嬢さん、ご覧なさい。うちの店にあるのはね、全て地中海が生んだ素材で出来ているんですよ。何世紀も、何十世紀も昔から、地中海の人々に愛され続けてきたのと同じものを今も作っているんです。素晴らしいでしょう?」
またこうも言ったという。
「窓越しにあなたがデッサン紙の筒を持っているのが見えてね。芸術を学んでいるのなら、是非うちのカメオも見てもらいたくて声をかけました。そもそもフィレンツェは古代の美を探求する人々によって栄えた街ですから」

この老人フォルテさんの決め言葉は、
「カメオは地中海の恩恵と、我々職人の技が一体化した、古代から続く唯一無二の宝です」だったという。

このエッセイを読んで、最近はあまり使っていないカメオをもう一度出してきて、つくづくと眺めた。そして 思った。
「大切になおしておくのではなく、もっと使う機会を増やそう」

このカメオを買ったのは、1982年夏。
今から35年も前のことである。


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ペンダントにもブローチになるカメオ


* * *


【ヤマザキマリ】
漫画家。1967年東京生まれ。
'84年に渡伊し、
フィレンツェの国立アカデミア美術学院に入学。
'97年漫画家デビュー。
イタリア人の比較文学研究者との結婚を機に、
シリア、ポルトガル、アメリカを経て、現在はイタリアに在住。
2010年、古代ローマを舞台にした漫画『テルマエ・ロマエ』で
第3回マンガ大賞受賞、
第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞、
世界8カ国に翻訳される。


More もうひとつのブローチ
by PochiPochi-2-s | 2017-04-06 23:15 | 思い出 | Trackback | Comments(8)

アキチョウジ

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「あらッ、アキチョウジの花が咲いているわ。
今年の天候は不順だが、草花は正直だなぁ。
毎年 咲く時期になると、心配無用とばかりに咲き始めるなぁ」

2、3日前の朝、庭の片隅でこのアキチョウジが咲き始めたのに気がついていた。

この花が私の小さな庭にやってきたのは、かれこれ もう10年以上も前になる。
私が絵を習い始めた頃、先生は、今と違ってまだ時間に余裕にあったのか、
クラスのみんなを近隣の野原や山に花や木のスケッチに度々連れて行ってくれた。

絵のクラスの、私が受けた初めてのレッスンも、
教室ではなく能勢の妙見口ケーブル駅近くの野原でだった。
当時そこにはまだまだたくさんの野草が咲いていた。
花のスケッチなどその時までしたことがなかった。
まして 透明水彩絵の具で色をつけるなど全くしたこともなかった。
何をどのように描いていいのか皆目わからず、ひとり困り果てていた。

『窮すれば通ず』
親切な歳上の人たちが「ここに来たら。私たちのグループに入ったら」と声を
かけてくれ、野に咲く花の名前を教えてくれたりスケッチの仕方を教えてくれた。
どの人もみんな野の花が好きで描くのが好きな人たちだった。
「ここで一緒にお弁当も食べましょう」とも言ってくれた。
その時そばに咲いていたのが、このアキチョウジだった。
知らない人達ばかりの中で緊張していた私の心がほっと解き放されたひと時だった。
嬉しかったので、一茎だけそおっと貰いナイロン袋に入れて持ち帰り、
挿し芽をして根が出てから山椒の木の根元に植えたのだった。
その時から10年以上も経つ今も、庭の片隅で消えてしまうこともなく、
毎年ひっそりと咲いてくれる。

「今描いているヒガンバナが終わったら、次の絵はこのアキチョウジにしようかな。
あの時のあの人たちは、どうしているのかなぁ。ほとんどの人が高齢になり、やめてしまった。もう一度会いたいと思う人もいるのになぁ」

心の中で密かにそう思ったのだった。

* * *

アキチョウジの花言葉 = 秘めやかな思い
また次のような短歌が歌われている。
秘めやかに思い深める昨日今日アキチョウジ咲くうつむきしまま (鳥海昭子)



More 今日の夕焼け
by PochiPochi-2-s | 2016-10-09 23:09 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

懐かしい人

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"豚飼いと豚たちの像"の前で
真ん中がアマンさん
友人のご主人と私の3人で


人は過去の何かを思い出す時、どのようなことがきっかけになるのだろうか。
今月の初め、いつも訪ねることを楽しみにしているブログの一つであるドイツに住む
sternenliedさんのブログで、興味深い記事『豚さんたちは人気者』とそこにアップされた写真に出会った。
ブレーメンの街角に置かれている"豚飼いと引き連れられた豚たち"の像である。

「あっ、この写真! 懐かしいなぁ」

ブレーメンの街が、思い出の中から鮮やかに浮かび上がった。
と同時に、懐かしい顔を思い出した。
アマンさんの顔だった。
ブレーメンに住む、優しくて、正直な、何事も一生懸命で、親切な牧師さんだった。

当時友人のHさん夫婦は、私がハンブルグに住む友人のメミング夫妻を初めて訪ねるという計画があることを知り、私にメールをくれた。2002年5月のことだった。

「あなたがハンブルグに行く時期に、自分たちもブレーメンにアマンさん訪ねる予定です。メミングさん家で落ち合い、一緒にブレーメンに行きませんか。彼がブレーメンの街を案内してくれるそうですから」

10日余宿泊させてもらった後、ハンブルグ駅まで見送ってくれたメミングさんに別れを告げ、友人夫婦と一緒にハンブルグからブレーメンに電車で向かったのだった。

ブレーメンの駅のホームでアマンさんは待っていてくれた。
彼はこの上もなく優しく親切な人だった。
まるで私欲というものが全く無いと思えるような人であった。
ボランティアでブレーメンの街のガイドをしている娘さんに前もって相談し、
私たちにガイドするコースを決め、説明の文章を考え、暗記していた。
驚いたことに、私たちの訪問する日の前日にも、全く同じコースを自分一人で歩いて
きちんと説明文を暗記できているかどうかを確認したということだった。
そのおかげか、説明はよどみなく、ジョークもすばらしかった。
最高のガイドだったことは言うまでもない。
私たち4人は四六時中笑いが絶えなかった。

またアマンさんの奥様もすてきな人で、優しく親切、お料理が上手だった。
お昼前にブレーメンに到着したので、
「少し早い目のランチをしましょう。
妻がランチを用意して家で待っていますから。
食事をしてからゆっくりと街を案内しますから」
アマンさんはそう言って、私たちを自宅に招待してくれたのだった。
ランチはサーモンのグラタンとサラダ、お皿いっぱいに盛ったイチゴとコーヒー。
アンネマリー(奥さんの名前)の料理はおいしく、
「ドイツの料理はねぇ〜」という私の偏見を見事に覆してくれるほどのものだった。

彼女は旧東ドイツ出身。
アマンさんは戦争中ユダヤ人収容所に入れられていたらしいとのことだった。
口には出さないが、かなり大変な時期を送ったのだろうと心に感じるものがあった。

アマンさんの人柄を表す今でも忘れられないシーンがある。
ブレーメンの街の中の古い通りを歩いていた時のこと。
そこは観光客が多く訪れ、また街の人たちもよく通る人数の多い通りだった。
その街角のあちこちに、壁にもたれて座り物乞いをするドイツ人青年が何人かいた。
みんな虚ろな目をして、汚れた服を着、まるで生気がないような姿だった。
誰もが横目で見ながら通り過ぎる中、
アマンさんは必ず、ポケットに手を入れ小銭を取り出し、
物乞いをする若者たちの手になにがしかの小銭を握らすのだった。
そして 微笑みながら一言二言声をかけ励ますのだった。
彼のズボンのポケットにはそういう若者たちに施す小銭がいっぱい入れられていた。
たまたま出会った一人の若者に小銭を施すことは誰でもできるが、
出会う若者全員に小銭を施すことができる人は、いったい何人いるだろうか。
この少し前、ハンブルグの街の中心にあるデパート近くの人通りの多い場所でも
物乞いをするドイツ人の若い青年を見たばかりであった。
誰一人として彼にお金を施している人を見かけなかったのだった。
それ故アマンさんの姿に感動したのはいうまでもないことだった。
彼の背中はどこまでも親切で、励ましの声はどこまでも優しかった。

その彼は今はもういない。
私が出会った翌々年、病気で亡くなられた。
あのすてきな家は教区の牧師館だったので、
夫人のアンネマリーは家を出て老人ホームに入ったと聞いている。
アマンさんは、今はもう もう一度会いたくても絶対に会えない人になってしまった。
でも、彼との思い出はいつまでも私の心の中にあり決して消えて無くなりはしない。
彼のことを思い出すと、いつでも私の心は暖かくなる。

その夜、アマンさんと別れ、友人夫婦と夕食を一緒にし、
夜行列車で一人スイスにたったのだった。
ブレーメンを出発し、ハンブルグを経由、バーゼル(スイス)には早朝6時の到着。
ベルンで少し遊び、ツェルマットに到着したのは夕方5時過ぎだった。

人は何かのきっかけで過去の懐かしい出来事や、出会った人を突然思い出す。
今回はsternenliedさんのブログの写真が私に懐かしい人を思い出させてくれた。
心うれしい、至福の時間を過ごせたことに感謝したいと思った。


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アマンさんの家
広い芝生の庭に面したテラス



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友人(左)と
ブレーメンの音楽隊の銅像の前で


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ブレーメン駅の前で
ここから夜行列車に乗ってスイスへ


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by PochiPochi-2-s | 2016-10-04 23:30 | 思い出 | Trackback | Comments(4)
「おばあちゃん、大雨だけどだいじょうぶ?」

正午12時過ぎ、cメールの着信音。
ハルちゃんからのメールだった。
『避難準備情報』(自主避難)が出ていた頃だったので心配になったのだろうか。
「おばあちゃんとおじいちゃんは大丈夫だろうか」と気にかけてくれるくらい
大きくなったのだなぁと思うと、感慨深いものがあった。

ふっと小さかった頃の"台風風景"を思い出した。

和歌山生まれの和歌山育ち。
いつも砂浜で遊んでいた浜育ちの私には、台風と聞くと必ず思い出す光景がある。
台風接近による荒れた海、波の様子と、
「台風がやってくる」と聞くとすぐに父がとった行動。
一階の屋根に上り、二階の建てつけの悪い南向きの窓の外から板をきっちりと
打ち付け固定する。屋根瓦のぐらついているところを見つけて直す。一階二階の
すべての窓の雨戸を閉める。庭にある、風で飛ばされそうなものを片付ける等
忙しく動き回る父の姿。
そして、いよいよ風、雨が強くなってくる前には、二階の窓に面した部分の畳を捲り
あげ、家の中から窓に立てかけ、桟の様な細長いつっかえ棒で畳を支え、押さえる。
強風で窓が吹き飛ばされないためだった。
ある日、四国高松出身の友人と話していた時、彼女も同じようなことを言っていた。
台風が来ると聞くと、外から窓に板を打ち付け、畳を捲りあげ中から窓に立てかけ
棒で支えたと。
太平洋に面した場所に住む人たちは皆同じようなことをしていたのだなぁと、
その時は変に納得したのだった。

「台風が室戸岬をかすめ紀伊水道に進路をとる時が、和歌山にとって一番恐ろしい。
台風の東側になるから」
小さい時から聞かされてきた言葉は、未だに耳に残っている。
それほど台風は、昔から脅威であった。

幸い私の住む地域では台風16号による風雨もたいしたこともなく無事であったが、
またしても多くに人たちが被害にあわれ、恐ろしい思いをしたかと思うと胸が痛む。
一日も早い復興を祈るばかりである。


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台風一過
夜中に月が見えた





by PochiPochi-2-s | 2016-09-20 23:20 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

芙蓉の絵を描きながら

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生石高原(和歌山)のススキ野原
(websiteから拝借)


朝早くiPadを立ち上げた時、高原一面のススキ野原の画像が目に入った。
「ああ、ススキだ。もう秋だなぁ」
一瞬そう思った。
しかし、その後しばらく忙しかったので、
いつの間にかススキの画像のことを忘れてしまっていた。

お昼前、久しぶりに描きかけの芙蓉の絵を取り出し、
今日こそは完成させようと描き始めた途端、
ふっと、朝見た高原一面のススキ野原の画像が頭をよぎった。
と同時に、
何故か、ずいぶん昔の、もう半世紀近く前の怖い思いをした山登りを思い出し、
絵を描いている間も 頭から離れなかった。

その登山は、比良山系藤原岳から御在所岳までの縦走。
1学年上の先輩(女子のサブリーダー) I さんと私の二人での登山。
日頃、お互いにあまり良い印象を持っていなかった先輩と後輩二人だけ。
彼女のこの登山への思いは知らなかったが、
私はこの山行で、彼女と心を開いて思いっきりいろんなことを話し、
彼女を理解しようと心に決めていた。
そうすれば、つっけんどんにならずに、もう少し穏やかに話ができるだろうと。

早朝に大学を出、電車とバスを乗り継ぎ、峠まで歩いて登った。
「わあ〜ッ、一面のススキの野原!
しかも、私たちの背の高さ以上のススキ。
どうしよう。前方にまっすぐ一本の道しか見えない…」
峠に出て初めて山の上の様子がわかったのだった。

曇ってはいたが天気は良く、ススキ野原の一本道を快調に進んで行った。
しかし、それも束の間だった。
まもなく、みるみるうちに空が暗くなり、雨が降りはじめた。
すぐに止むだろうと思っていたので、
急遽 持っていた簡単なツェルトを張り、その中で雨宿りをすることにしたのだった。
しかし、雨は止むどころかだんだんと激しくなり、ツェルトではまに合わなくなった。もと来た道を戻り、来るときに乗ってきた、翌朝の始発のためのバスの中で雨宿り
をさせてもらおうと引き返すことにした。

「ええッ⁉︎
帰る道が何本もあるわ。
来た時は一本しかなかったのに…
どの道を選べばいいかわからない…」

最悪だった。
雨のため周囲の山は見えない。
方角を失ったので磁石も使えない。
その上、帰り道は何本もあった…
行きは嬉しくて心が高ぶっていたのか、一本の道しか見えなかったのだった。

仕方なく、分かれ道に来る度に、背丈以上の高さのススキ野原の中の何本かある道
の中から感覚だけで帰り道を選び前へ前へと進んだ。
しかし、………
行けども行けども同じところをくるくる回っていることに気がついたのは、
引き返し始めて暫く経ってからだった。
この時ほど絶望感を感じたことはなかった。

雨の中で 途方にくれ立ち止まり、どれくらい経っただろうか?
ふっと 遠くの方からかすかに歌声が聞こえてくるのに気がついた。。
「それッ!」
足元に生える潅木もなんのその。
遠くにかすかに聞こえる歌声を目指してまっしぐらに進んだ。
絶え間なく降る雨の中、目の前にテントがぼんやりと浮かび上がった。
歌声はそのテントから聞こえてきていたのだった。
何人かの若者たちがその中で雨の止むのを待ち、歌を歌って過ごしていた。
「助かった!」
その歌声はまるで天からの救いの歌声のように思えたのだった。
そこは登山口から登ったところにある峠、
私たちも行きに通った場所だった。

全身びしょ濡れだったので、少しでも早く着替えたかった。
急遽登山を中止。
翌日の始発のためのバスまで戻り、そこで一夜を明かすことにした。
幸いバスのドアには鍵がかかっていなかった。
さっそく中に入り、服を着替え、そそくさと寝てしまった。
座席は固かったが、雨に濡れないので快適でぐっすり眠れたのは言うまでもない。
翌日大学の正門をくぐり時計台を見たときの嬉しさは、
何事にも代えがたいものだった。
「ああ生きている!」
そう確信した一瞬だった。
もう仲直りなんてどうでもよかった。
生きていることが嬉しかった。

先輩の I さんは今はもういない。
「結婚後 ご主人の仕事で札幌に住み、40歳になった頃 癌にかかり亡くなった」
亡くなられて随分経ってから そう聞いたときには、
「もう一度話をしてみたかったなぁ」と残念に思い、寂しく思ったのを思い出す。

芙蓉の絵を描きながら、この忘れ難い、ススキ野原の怖い思いをした山行を
ずーっと思い出していた。
その時以来藤原岳には一度も登っていない。
「できるものなら、I さんにもう一度会いたいなぁ」と思う。



by PochiPochi-2-s | 2016-09-06 22:51 | 思い出 | Trackback | Comments(12)
"さあ、8月。 いよいよ夏本番!"

そう口に出し、自分を鼓舞したいところだが…
昨夜の都知事選挙結果に唖然とした自分が、まだ解消されていなかった。
東京都民でもない、関西に住む一個人の私だが、そのショックは大きかった。

しかし、今日は 前々から約束していた友人たちとのランチの予定があった。
場所は川西。絵の教室のある場所のすぐ近く。
ぐったりくるような暑さのなか、出かけた。

新しくできたイタリアンの店。
"アルデンテです"と言われるスパゲティの硬さ。
うん? これは…

でも、友達との会話を前にしてそんなことはあまり気にならない。
2時間ほどの心おきない会話の後には、何となく心も明るくなっていた。

松原遠く 消えゆるところ
白帆の影は浮かぶ
干網 浜に高くして
鴎は低く波に飛ぶ
見よ昼の海
見よ昼の海

帰りの電車のなかでふとこの歌と青い海が心に浮かび、思わず微笑んでしまった。
でも、海の景色はいつもと違う海、もう少し荒々しい海、
父の生まれた村のすぐそばにある雑賀崎の海だった。


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現在の雑賀崎の海
(Websiteから拝借)


小さかった頃、父に連れられてこの海によく遊びに行った。
父の生まれた家に沿って細い坂道を崖の上まで歩いて行くと、
その前方にパッと景色が広がり、この青い海が目に飛び込んできた。

『細い坂道を登りつめると目の前にきれいな青い海が広がる』
小さかった私には この景色から受ける印象がよほど強烈だったのか、
大人になるまでよく夢の中に出てきたものだった。
私がよく遊んだ家のそばの、遠浅の、白い砂浜の海に比べれば
もう少し荒々しいかもしれない。

何故、今日、久しぶりにこの雑賀崎の海を思い出したのだろうか?

8月4日は父の誕生日。
今年の秋には亡くなってから12年の年月が経つことになる。
しかし、今尚私の心のなかでは生きている父、時々話をする父。
9人姉兄弟の末っ子だった父。
多くは語らなかったけれど、優しさに溢れていた。
動物を飼ったり植物を育てるのが好きだった。
久しぶりに父の笑顔を思い出し、
電車が駅に着く頃には、私の心がさらに明るくなり、元気になった。

もうすぐお墓に会いに行きますよ。
待っていてくださいね。


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*追加・8/3*

雑賀崎の海に沈む夕陽
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(4枚ともWebsiteから拝借)


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by PochiPochi-2-s | 2016-08-01 22:29 | 思い出 | Trackback | Comments(6)
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「まあ、ハワース村じゃない。懐かしいなぁ〜。
ウォーキングガイドのヘレンさんとふたりで、ヒースの咲くムーアから嵐が丘の舞台となったトップ・ウィスンズまで歩き、その後、その辺りに点在する西ヨークシャーの村々を歩き回ったんだった。あの時から何年経つのだろう。2013年の8月の始め
頃だったからもう3年も過ぎたことになる。光陰矢の如し。時間の経つのは本当に早いものだ」

2週間ほど前、いつものように買い物帰りに立ち寄った本屋さんに入るやいなや、
このタイトルが目に飛び込んできた。
雑誌 mr partner (ミスター・パートナー) の特集記事のタイトルだった。
今年は『ジェーン・エア』の作者、シャーロット・ブロンテの生誕200年の年に当たり、この西ヨークシャーの片田舎にあるハワースでさまざまなイベントが行われるという。
思わず手にとり、パラパラとページを繰ってみた。
懐かしい風景、建物、西ヨークシャーの村々がそこにあった。
たくさんの写真や、興味深い特集記事が掲載されていた。
これらの写真を見、書かれた文章を読んでいると、
この村での2日間、 なかでも特にヘレンさんと過ごした5時間余りの楽しかった
ウォーキングが記憶の中から鮮明に浮かび上がり、再び胸は高鳴った。

「世界中で、シェイクスピアに次いで読まれているイギリス文学は何ですか?
作者は誰ですか?」

友人のラヴィニアに会うために行ったロンドンでの現地バスツアーを利用してシェイクスピアの生地、ストラッドフォード・アポン・エイボンを訪ねた時、イギリス人の男性ガイドがツアー客に尋ねた。日本人は、私ともう一人、若い女性の二人。あとはカナダ人、アメリカ人が多かった。イギリス文学の好きなカナダ人女性は次から次へといろんな作家の名を挙げていったがなかなか当たらなかった。そんな中、ふっと私の心に浮かんだのが『嵐が丘』や『ジェーン・エアー』の作者ブロンテ姉妹、エミリー・ブロンテとシャーロット・ブロンテ。でも、「まさか…。私が好きなだけだろう」と思い躊躇して、その質問に答えず黙っていた。正解は、まさしく、その『嵐が丘』や『ジェーン・エア』であり「ブロンテ姉妹」だった。そんなに世界中で読まれているのかと、正直驚いたものだった。また、なぜそんなに世界中の多くの人たちに読まれるのだろうかと思ったものだった。
ハワース村への旅行から遡ること4年、2009年の秋のバスの中でのことだった。

では、自分はどうなんだろうと振り返ってみると、
学生時代、『嵐が丘』も『ジェーン・エア』のともに好きな小説で、どちらもそのストーリーに惹かれ繰り返し読んだ。また映画も何度も何度も見に行った。
確か英文学専門のゼミの女性の教授と映画についてよく話したものだった。
彼女は特に『ジェーン・エア』が好きなようだった。
まだ見ぬイギリスに憧れ、いつかヨークシャーという地に行ってみたいと思いながら
これらの小説を読み、映画を見に行ったのだった。

この特集記事では、今はブロンテ博物館となっているブロンテの生家、ブロンテ一家住んでいた当時のヨークシャーやハワース村の様子、ブロンテ一家の生活、家族の人間関係、『嵐が丘』の作者エミリーとアンの創作活動等について書かれている。読むにつれて、もう一度あのヒースの丘を歩き、『嵐が丘の』の小説でアーンショーの家とされてきた廃墟のトップ・ウィズンズで椅子に腰掛け、眼下に一面に広がるヨークシャーのムーアと村々を眺め、流れる風を感じたいと思った。
視界を遮るものは何もなく、地平線の向こうまで見渡せる景色を眺め、新鮮な空気を胸いっぱい吸い込みたいと思った。

この雑誌は もう一度あの忘れがたい時間を与えてくれたハワース村に私を引き戻してくれたのだった。


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by PochiPochi-2-s | 2016-07-26 22:50 | 思い出 | Trackback | Comments(6)

記憶

「あ〜あぁ〜、どしゃ降り…」

昨日は 朝からどしゃ降りだった。
午後、主人のかつての教え子二人が わが家に遊びにくる予定だった。
先月末からの約束。

一昨日から主人は落ち着かなかった。
「お土産に何を持って帰ってもらおうか? 遠いところわざわざ来てくれるんやから」
そのことばかりが頭にあり、そわそわしていた。
「生前の主人の母そっくりになってきたなぁ」と密かに心の中で笑った。

「すみませ〜ん。私、最強の雨女なんです!
ずいぶん前、ドバイに行った時も、40年来の雨とかで 普段 まったく降らない雨に
遭遇。どしゃ降りでした。小さい時からここぞというときは決まって雨なんです」

かつての教え子H君とMさんは、午後3時過ぎ、激しく降る雨の中訪ねてきてくれた。

5月11日の誕生日で、主人は古希を迎える。
彼らのかつての担任であった主人の『古希のお祝い』を、
かつての教え子たちが再び集まってみんなで祝ってくれるという。
その日程と場所を決めるために、わざわざ訪ねてきてくれたのだった。
その嬉しそうな彼の様子を見ていると、私まで何となく嬉しくなった。

「チーズケーキを焼いたので、コーヒーといっしょにどうぞ」

言うと同時に嬉しい言葉が返ってきた。

「わあ、嬉しいっ!
懐かしいなぁ。奥さんの手作りのケーキ。あの時はどんなに嬉しかったことか。
何か行事があるたびに奥さんの手作りのケーキと先生のおごりのジュースが出てきた
クラスだった。変わった先生やなぁと思いながら生徒としてはめっちゃ嬉しかった。
奥さんに会ったら絶対にお礼を言わなければと思っていたんです」

H君の、思ってもいなかった言葉。

「ええっ、そうだった?
そんなに何度もケーキを焼いていたかなぁ」

全く覚えていなかった。
当時からケーキを焼くことは好きだった。
大きなオーブン皿いっぱいの大きさの四角いアップルパイをよく焼いていた。
しかし、私の記憶の中では そんなに何度も彼らのためにケーキを焼いたという覚え
はない。全く覚えていない。まだ小さかった子供3人をかかえ、日々忙しく走り回っていたことしか覚えていなかった。


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《当時の学級通信》


「昨日彼らが来る前に、このファイルを何処に入れたんやろうと思って探したんや。
行事があるたびに 生徒に何か書かせたり、自分で旅行記や雑感を書いたりして学級通信という形でよく出していた。もっちゃん(長女)やマック(長男)にも挿絵を描いてもらってる。若かったんやなぁ。今となっては懐かしい。読んでいると、今まで忘れていたいろんなことが思い出される。人の記憶ってそんなもんなんやろなぁ。」

今朝 主人がかつての学級通信の原稿をまとめたファイルを私に見せてくれた。

その途端、私も忘れていた当時のいろんなことを、突然、思い出した。
3人の子供たちとの楽しかった毎日、主人の同僚との家族を含めた付き合い、仲間たちのマンションへの引越し祝いや新築祝い等でみんなで集まり、持ち寄りパーティーをしたこと等々。30代の若かった日々が、突然、心の中に現れ、輝きだした。
懐かしい気持ちでいっぱいになった。

人の記憶は時間の経過とともに薄れ、忘れて行く。
しかし、写真やこのようの文章などがあれば、それをきっかけに再び思い出す。
「記憶とはそのようなものなのだろうなぁ」

今日は朝から、
再び思い出した懐かしい当時のことの話で二人の会話は盛り上がったのだった。



by PochiPochi-2-s | 2016-04-08 23:10 | 思い出 | Trackback | Comments(4)
何か華やかな、自然と心が弾むようなメロディーが、どこからか聞こえてくるような
気持ちで目覚めた。
久しぶりに 気持ちのいい朝 の始まりだった。

「うん? あの曲は?」
ヴィヴァルディの『四季』・春のメロディだった。








ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ・クロイツェル(春)とともに好きな曲。

「ああ、久しぶりにいい気分だなぁ〜」

そう思ったとたん、気持ちは、もうずいぶん昔、四半世紀近く前に行われた下の弟の
結婚式の披露宴会場に飛んでいった。

「叔父さんの結婚式に招待してもらったから、お礼に披露宴でフルートを吹きたい。
ヴィヴァルディの四季から春・夏・秋・冬、全部吹くわ」

いつにない、長男らしからぬその言葉に、一番驚いたのは母親である私だった。
(彼としての理由が他にもあったのが、その時はまだわからなかった。)

彼は、小3の秋、突然、フルートを習いたいと言い出し、難波にあったヤマハ音楽教室の大人のフルート教室に入れてもらい、会社帰りのお姉ちゃんたちに混じって、練習を始めた。その時から5年の月日が経っていた。

3月、中3になる春休みに入ってからの結婚式での演奏のために、前年の12月頃から
準備を始めていたようだった。フルートの先生と相談しながら。当日まで、父親にも
私にも何もひと言も言わなかった。只々ひたすら練習していたのを今でも鮮明に覚え
ている。

妹(長女)は中学生になる春だった。
彼女は やはり6年間習ってきたエレクトーン演奏で華を添えた。
『いい日旅立ち』『秋桜』『てんとう虫のサンバ』など数曲を 結婚式にふさわしい
ようにと、エレクトーンの先生が見事に アレンジしてくれていた。彼女もまた当日のその日まで一生懸命練習していた。

「楽しい和やかな結婚式だったなぁ…」



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《庭で咲き始めていた啓翁桜》


ふっと 庭を見ると、原種アネモネがたくさん咲き出しているではないか!
この一週間でかなり春が進んでいるはず。
元気を奮い起こして庭に出てみた。

「ああ、やっぱり! 啓翁桜が咲き始めていた 」

嬉しくて、一気に元気になったような気がしたのだった。




彼のもう一つの理由は、
「この時を最後に、暫くは フルートをやめたい」ということの宣言だった。

塾にも通わず、サッカーに打ち込んでいた彼にとって、
この最後の、中3の1年間がどんなに大切かよくわかっていたようだった。
志望校も既に決めていた。親に相談もせずに。
フルートの先生にも早くからそのように言っていたらしかった。
彼に関してはいつも私たち親は“事後承諾”の繰り返しだった。
親というのはそんなものかもしれない。

翌年の春、彼は見事に第一志望校の府立T高校に合格した。
しかし、それからはさらにサッカーに夢中になり、
フルートを再開することはなかった。




by PochiPochi-2-s | 2016-03-13 20:53 | 思い出 | Trackback | Comments(4)

生きている喜びを感じられるように生活したい


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