庭の蝋梅が咲き始めた
昨日は夜半から降り始めた雨が一日中降り続いた暗い日だった。
一昨年のこの日は神戸の
東遊園地で開催される「1.17のつどい」に行っていたが、
今年は絵の教室の新年会が重なり行くことができなかった。
新年会は和やかで、みんな楽しそうに歓談し食事を楽しんでいた。
しかし、震災から23年という年月がそうさせるのかもしれないが、話題の中心は健康の維持や
2月の作品展のこと等であり、今日は1月17日だという話題もなく震災の話も全くでなかった。震災の記憶の風化が度々話題にのぼる昨今、新年会という場がそうさせたかもしれないが、自分が直接の被災者や関係者でなければ現実はこのようなものなのだろう。
記憶は風化し消え去っていく。
昨日の各新聞は震災からで受けた心の傷みをいまだに癒すことができない人々のことを取りあげ報道していたが、心の問題はなかなか難しい問題だろうと思いながら読んでいた。
新年会の帰り、みんなと別れひとり、楽しみの本屋さんに立ち寄った。
いつものように雑誌のコーナーに行くと、
私の好きな小雑誌(「婦人之友」2・2018)が棚に並んでいた。
ああ、もう2月号が出ているのだと思い、手に取ってパラパラとページをめくってみた。
今月号は読みたく興味深い記事がたくさんあり、迷わず買ってしまった。
帰りの電車の中でそおっと取り出し再びページをめくり読んでみた。
やはり一番に読むのは「こころの深呼吸(85)」(海原純子・心療内科医)のぺージ。
今月号のタイトルは『心の宝石箱』だった。
思ったとおり心に響く文章だった。
短いエッセイなので拝借してここに書き写しておきたいと思う。
♧
『心の宝石箱』
仕事の帰りに歩きながら、木の葉が揺れるのをみると、景色とは何の関係もないのにふっと思い出すことがある。
東北の講演会で会った女性の微笑み、飛行機でもの入れから重い荷物を取り出すのを手助けしてくれた年配の男性、「こっちですよ」と道案内してくれた九州の若い女性の軽やかな歩きかた。朝、時間がなく、空腹のまま空港へと乗りこんだタクシーの運転手さんが、「それなら食べていきなよ」と袋ごとわたしてくれた地元のみかんの香り……。
ふだんは忘れているようなささやかな思い出が、時々「しまっておかないで出してくださいよ」と言っているよう。そのささやかな思い出というのは、見返りを求めない、ごく自然なやさしい気持ちや、心配りを受けた記憶。現実の忙しさからちょっと抜け出した瞬間に思い出す。
私はそうした「小さな親切」の入った宝石箱のふたをあけて、思い出しながら過ごすのが好きだ。心がすっと浄化され、不思議なことに「ありがとう」と呟くと、日常の怒りやイライラが消えているのに気がつく。
怒るのをやめようとか、いらだちをおさえようなどと必死になるより、心の宝石箱のふたをあけると、ずっと簡単に心がきれいになる。そして、自分がこれまで生きてきた道のりの中で、見知らぬ人からどんなにたくさんの親切をもらってきただろうと、感謝の気持でいっぱいになったりするのだ。怒っている自分より、ありがとうと呟くことができる自分の方がずっといい。
誰でもみんな心に宝石箱を持っているはずだ。でも日常生活のあわただしさの中で、ふたを閉めている。時々、木々を眺めたり、月を見上げたり、風を感じたりした時、宝石箱を思い出し、ふたをあけてみてほしい。
それは、何ともいえない幸せな時間を運んできてくれるはずだから。
(梅原純子)
アンジーへのプレゼントのあと、さらにもう一枚編んでいたフンデルトヴァッサーのネックウォーマー。昨日やっと完成し、今日初めて使ってみた♪
今年はあともう一枚編む予定。友人のタイ人Pさんのために。