『わたしが 一番きれいだったとき』- 茨木のり子詩集より -
2015年 07月 05日
茨木のり子さんは1926年に大阪で生まれた。本名は三浦のり子。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で終戦を迎えた。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感受性を育んだ。敗戦の混乱の中、帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。 1950年(24歳)に結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。 1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。 |
なんて深い心を見つめ、ご自身の気持ちが何とも言いようのない虚しさを感じました。図らずも私自身をも見つめてしまいました。
今切実におもうことは「私が一番あたまが冴えていたころ…」とでも言いたい毎日です。
だんだん退化する体など諸々の機能を見つめる…、戦争のために人生が狂わされたという切ないことではありませんが、私も自分の人生を考えました。
おかげさまで生まれた時期が良かったと思います。死ぬまでとは言いません。後々の世が戦争によってめちゃめちゃになりませんように。
大人は戦争を、子どもは弱い者いじめを、動物は食べたり食べられたり、命につながる大変なことに目の色を変え争います。
私は戦争に行ったと、誇らしげに言っていた人もおりました。また、戦争でやむを得ず、人を殺して生き残った自分は心が大変に傷ついて廃人になりそうな話も聞きます。
人間の殺し合いが戦争です。穏やかに参りましょう。
(この言い方は暢気過ぎますが、真意は分かってね。)
よく分かりますよ。
子供たちに「いじめるな」と言いながら、最先頭に立っていじめを
しているのが首相をはじめとする政府の面々。情けないですね。
子供たちはそんな大人をよく見ています。
この詩でご自分を振り返っていただけてうれしいです。
私は読んだとたん 母のことを思い出しただけでしたが…